貴方と云う甘い媚薬に溺れる

□蜘蛛の巣に囚われた蝶は
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僕の側を走り通り過ぎるのは、いつも慌ただしい社員達。

みんなそうだ。

書類を持ちながら携帯電話で通話していたり、命令型の大声が飛び交ったりしている。ここではみんな時間に追われている。朝も、昼も、夜も、いつ見ても。


自分とはいえば、仕事が山ほどあるというのに、何故か身に入らない。やってみたはやったみたのだけど、上司にミスばかりじゃないか、と怒鳴られ、頭冷やしてこいと追い出された。


カツン、カツン。


靴が真っ白な廊下に当たる。軽快な音。しかし、今の僕の気持ちはそれと正反対だ。重苦しくどんよりとしている。

はぁあ、と思わずため息が漏れた。


一体なにをやってるのだろう。僕の人生なんてどうせこんなものなんだろう。

人間関係も停滞しているし、普通の人以上にできることなんてなくて飛び出たスキルも持ち合わせていない。
平凡で平凡すぎる人間。

ここのところ、愛着もわかない自分の人生に意味を見いだせていない。


ずっと灰色の世界だ。

カラーでもモノクロでもない。


「卯月ィ」


僕を呼ぶ声が、妙に鮮明に聞こえた。

ドクッ。心臓が一度強く波打って、身体が強張った。足が止まる。嫌だ。相澤さんの、声。背後から聞こえた。後ろにいるんだ。心なしか背筋が冷たくなっていく感覚を覚えた。


心臓が急激に早鐘を打ちはじめる。

僕は僕を呼ぶその声が、何を意味するのか知っていた。それは、ただの繰り返しのはじまり。


息遣い、肌の温もり、舌の感触、相澤さんの質量。刹那。あの夜のことが一瞬にして走馬灯のように、頭の中をとてつもないスピードで駆け過ぎた。


それでもたしかに、感触が濃厚に思い出され、目眩を覚え、ありえないくらい視界がねじ曲がった。

入れられた箇所が疼く。驚愕に目を見開いた。嘘だ、そんなの。信じられない。信じたくない。


「卯月?」


後ろ髪を強く引かれたような気がした。強引に現実に引っ張り戻される。


「……な、にですか、相澤さん」


声が微細に震える。笑おうとしても顔が引き攣る。冷や汗が一筋、背中を滑った。足が小刻みに震える。まともに立ってられない。

背後にいるはずの相澤さんを見るほどの余裕はなかった。


「どうした?体調でも悪いのか」


いつもと変わらない、落ち着いた低い声。そう、いつもと変わらない。

あの夜の甘い声と違う、とか思ってしまう僕はきっと馬鹿なんだ。


「あ、はい、そんなところです」


早く立ち去れと、頭が言っている。全身に強い命令をかけている。

早く、早く、早く。動けと急かされる。頭が叫んでいる。


それなのに、身体は金縛りにでもかけられたように、まったく動かない。

この後にかけられる言葉に期待しているのだろうか。だとしたら、僕はきっと、どうしようもない…どうしようもない人間だ。



「卯月。今週末、飲みに行こうぜ?」



少しだけ甘みがかった声。

何かが崩れ落ちる音がした。


理性が崩れ落ちたのだろうか。あながち間違いではないのかもしれないな、と思う。



こうして少しでも甘い声で誘われたら、もう終わりだった。あがいても断ち切れない。理性も打ち負かされる強い誘惑。


身体が欲求にうごめいた。その一方で身体は全身で駄目だと拒否している。



けれど。



下唇を強く噛み締めた。


「……行きましょう」

「そうかい」



ククッ。


相澤さんの嘲笑が微かに聞こえた気がした。





罠だと知っていても、そこにある蜜を無視していく術を蝶は持たない。
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