貴方と云う甘い媚薬に溺れる

□蜘蛛の巣に囚われた蝶は
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コツン。

まわりは怒声や話し声が飛び交っていて煩いはずなのに、後ろの足音だけがやけに鮮明に聞こえた。

カツン、コツン。

近づいてくる音に身体が硬直する。血の気が引いていくようだ。
心臓が内側から激しく胸を叩く。

身体がさっきよりも大きく震えはじめる。足が浮き立つ。
肩を並べるようにつかの間足を止めた相澤さんが囁く。


「じゃあな、卯月。俺は仕事に行ってくるぜ」


身体にガン、と衝撃がきた気がした。ドクン、と強く脈打ち、時間が一瞬止まる。


相澤さんの言葉に答えようとしたけれど、動かない、いや、動けない。何者かに束縛されているような錯覚を覚える。
身体だけが小刻みに震えていた。


頭に微かな重さと温もりを感じ、鼻にまとわりつくような甘ったるい匂いが通り過ぎる。

相変わらず鼻につく匂い。



――けれど、それよりも、なにより、僕を呼ぶ声が甘いのはどうしてなんだ?相澤さん。


悲痛と猜疑に飲み込まれそうだ。


僕は、どうすればいい。


胸が圧迫される。遠さがっていく足音に、その場で崩れて泣き叫びたくなった。

地についていると思えない足を見下ろす。数秒、思った。


どうすれば、いい……?


思わず口元が吊り上がる。自問自答した自分を嘲った。


どうすればいいかなんて、昔から分かりきっているのに。



馬鹿だ。どうしようもない……馬鹿。





その場ではなんとか堪えて、駆け込んだトイレで涙が二滴、便器に落ちた。

手を強く握り込む。


僕はなんてどうしようもなく馬鹿で愚かなんだろう。


腐るほど羅列される自責の言葉の数々。嫌だと振り払っても、ねっとりと心に付き纏う。



だって現実はいつだってそこに、僕を嘲笑うみたいに立ち据えてる。どれだけ否定したくても、断ち切りたくても、断ち切れない。逃げられない。



それが、現実なのだから。


生きている限り逃げられない。



だから自分で切り開いていかなくちゃならない。
自分はそれができないでいるんだ。



僕の勇気や決断など、ちっぽけなもの。誘惑や邪魔にいつも負けている。





便器に零れていった涙が何粒なのかは知らない。
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