BASARA
□SS
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《板挟み》
彼女が酷く悶々とした表情を浮かべている時は、大抵信長公が関係している。
信長公はあまり他人の気持ちを気にしないお人だ。
それは必ずしも他人に対して何も感じていないという訳ではないが、情の細かい彼女にはいろいろと思うところがあるのだろう。
そして今日も彼女はため息を吐いている。
「今日は一体どうしたのですか」
「何よ、あなたには…関係ないでしょう」
そう言って文机の上で書き物をしながらまたため息を吐く。
白いうなじに垂れた数本の髪の毛が艶めかしい。
「主の奥方様の悩みを取り除いて差し上げるのも立派な臣下の仕事だと思いますよ」
隣に座れば複雑な色を宿した目でこちらを見てくる。
「奥方様、ね…
本当に、あなたは私のことをそういう風に見ているの?」
「ええ、当然ではありませんか」
外から入ってくる風が、文机の上に乗っている紙をばらばらと捲り上げる。
あまり武家らしくない、南蛮風の変わった彫り物がしてある文鎮は信長公の趣味だった。
彼女は確か輿入れの時に斎藤家から持ってきた文鎮も持っているはずだったが、それをあえて使わないのは彼女なりの信長公への思いの表れなのだろう。
「では私を濃姫と呼ばないで帰蝶と呼ぶのはどうしてなの?」
「その方が呼び慣れているからですよ」
白々しいこのやり取りは先日も繰り返されたものだった。
射抜くような、咎めるような視線。
私が嘘をついているということに、彼女はきっと気が付いている。
「…私はね、光秀。
上総介様に認めていただきたいの」
書き物の手はとうに止まっていた。
髪飾りが風に揺れて音をたてる。
「ただ帰りを待つだけの非力な女ではなくて、あの方の役に立つ有能な女なのだと」
「そのように思い悩まずとも、信長公はあなたのことを認めていらっしゃいますよ」
「気休めは聞きたくないわ」
怒りとも悲しみともつかない声音で吐き捨てるようにして言う。
「光秀、わかるでしょう?あの方は私のことなんて見えていないわ。
その証拠に、私には必要最低限のことしか口になさらない」
「信長公は、それだけあなたのことを信頼しているのですよ。言わなくてもわかっているはずだと」
「実はね、私…嫉妬しているのよ?
あなたや、蘭丸君に」
自嘲するような笑みを浮かべて、彼女はついに筆を硯の上に置いた。
固く握りしめられた左手は微かに震えていた。
「気付いていた?
私が戦場で、時々あなたの方に銃口を向けていることに」
「面白くない冗談ですよ、帰蝶。あなたはそんなことをするような人ではありません」
「本当のことよ。
でも不思議ね、一度も引き金が引けないの」
彼女は無理に笑うと引き出しから愛用の二丁拳銃を取り出した。
「こんなに、持ち手が色褪せるまで使い込んで、私はまだ引き金を引く時にためらいを覚えるのよ」
「…私が、どうしてあなたに嫉妬されるというのですか」
「ふふ…わからない?
私はね、まだ一度も上総介様にお褒めの言葉を頂いたことがないのよ」
膝の上に置かれた金属の塊を、彼女の白い指が這う。
官能的だ、などと場違いなことを思った。
「私の働きは、そんなに劣っているかしら?」
彼女はゆっくりと引き金に手をかけると、どこに標準を定めるでもなく銃口を上げた。
夢でも見ているような目をしている。
きっとここにはいないあの方のことを想っているのだろう。
「あなたがいなくなれば、上総介様は私の方を向いてくれるのかしらなんてことを思ったこともあるわ」
「私の存在は、あなたにとって邪魔なのですか」
「どうかしらね…よくわからないわ」
銃を弄ぶ手が止まった。
「あなたはいつもこうやって私のところに来て、少し話をして帰って行くでしょう?
その後私は寂しいと感じてしまうの」
俯いたまま彼女は再び銃を撫で始めた。
差し込む光を反射して銃身がきらりと光る。
「…光秀、あなたは私のことをどう思う?
私はおかしくなってしまったのかしら。
あなたを見ていると、自分が二人になってしまったような気分がするのよ」
「…きっと疲れているのでしょう。
大丈夫です、信長公は、気に入らない人間を側においたりはしないお方です」
「そういう意味では、ないのよ光秀。
私は上総介様のことを愛しているわ。でも、」
言葉を濁す。
しかし目は私の方を向いていた。
だがいつものきりりとした瞳ではなくて、怖がっているような、怯えているような、力ない瞳が私をじっと見つめている。
時が止まってしまったかのような錯覚を起こした。
「あなたのことを好いている私もいるのよ」
言ってしまってから彼女は苦しそうな表情をした。
「私はどうすればいいのかしら。
私には、あの方が遠くに感じられてならないの。
でもあなたはこうやって私の傍にいてくれる」
泣き出しそうな顔だった。
どうすればそんな顔をさせないで済むのかと、そればかりを考えていたがわかるはずがなかった。
私がそんな顔をさせているのだから。
「あなたを殺せば私は楽になれるのかしら」
「撃っても、いいですよ」
ふっと、思いついたままにそんなことを言えば、彼女が目を大きく見開いた。
「光秀…?」
「そんな最期も、悪くないかもしれません」
彼女の手を取って銃を握らせた。
白い手は見た目よりも温かかった。
「あなたにそんな顔は似合いませんよ」
手を添えたまま銃口を持ち上げさせる。
彼女の手は小刻みに震えていた。
「な、何をするのっ」
動揺もあらわに振りほどこうとする手を押さえつけておくのに、大した力は必要なかった。
「撃ってください。
それであなたが自由になれるのなら。
私はそれで、本望です」
少し笑ってみせれば彼女はより動揺を深めたようだった。
「駄目よ、そんなことできるわけないじゃない!」
腕の力が完全に抜けて、銃がごとりと床に落ちる。
とうとう彼女は泣き出してしまった。
私の肩口に顔をうずめて泣きじゃくる彼女をどうすることもできなくて、背中をさすっていたら馬鹿、馬鹿と漏らす声が聞こえた。
それから彼女はいつまでもいつまでも泣いていた。
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珍しく両思い気味なのに全然甘くないorz