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ラストヌード―下―


晋助が引退に踏み切ったのは、彼が30歳の誕生日を迎える半年前の話だった。
俺はその日朝から何も食べてなかったが、その空腹を忘れるほどに驚いた。
自分は“裸”という作品であり、これ以上美しい作品は表現できない、つまり寿命なのだと言う。
その頃の晋助の健康状態は極めて悪く、肌もかろうじて人に見せられる程度だった。
体内はぼろぼろで、AVメーカー側も「こいつはもう使えないな」とそっぽを向き始めていた。
俺は考え直せ、とは言わず、それが賢明な判断だと断言してやった。

引退記念として最後の作品はどうする、という話になり、ヌード写真集を出すことにした。
俺はその撮影の依頼を待つことはせず、進んで立候補した。俺の人生の中で最も印象に残る作品にしてやろう、と思ったのだ。
晋助も「是非お前に撮ってほしい」と喜んでくれ、周囲のスタッフもそれには納得してくれた。

打ち合わせに入り、何をテーマにするかという話に及んだ時、晋助はまずその写真集のタイトルを「晋助」にしてほしいと言った。つまりは自分、がテーマ。
芸名の「SHIN」ではなく「晋助」という本名を出すのか、とその場は騒然としたが、俺はそのほうがいいと思った。
売れるかどうかは関係なく、彼は最後の作品を通して、人間としての自分を見つめ直したかったに違いない。

晋助は俺に「お前にしか撮れない」と言ってくれた。
もちろん晋助は裸になるわけだが、俺は素肌のぶつぶつ具合だけでなく、晋助と言う人間を、その写真集を手に取った全ての人間に俺が説明しなければならない。
「この撮影が終わるまで、俺と心をひとつにしてくれ」と晋助は言った。
俺にできるのか。それにはどうすればいい、と聞くと、「カメラを持つ間は、俺のことだけを考えてほしい」と答えた。
気が狂いそうだが、俺の人生をも狂わせるような撮影ならば喜んで引き受けようか。

撮影場所を決める際に、晋助はどこでもいいからベッドがいいと言った。
「俺はたいていベッドの上にいたから」というのが理由だった。
大型本で撮影場所がベッドのみ、というのはあまりないケースだ(少なくとも晋助は、最低三か所で撮影していた)。
「色んな場所で撮ると色んな顔が撮れるというけど、所詮顔はひとつなんだ。重要なのは場所じゃない。」

その日の夜、晋助は事務所で酒を煽りながら、自身のこれまでの写真集を見返していた。
スタッフはくたびれており、ソファに腰掛けて居眠りをする者や、目を真っ赤にして撮影スケジュールを組んでいる者もいた。
俺は喫煙所で煙草を吸い、リラックスしていた。これからが過酷な戦いになりそうだ。
喉が渇いて販売機でウーロン茶を買い、「反省会でもやってるのか」と冗談交じりに晋助の様子を覗きに行く。
晋助はいつになく難しい顔で写真集の中の自分を睨みつけていた。

暫くしてこれが邪魔なんだ、と晋助が紙の上に指を置いて俺にふってきた。
そこは晋助の局部。つまりペニスだ。
彼は何が足りないのではなく、いらないのだと言うので、一瞬意味不明だと思ったが、俺は途端にその意味を理解してぎょっとした。

「ペニスを切るべきだ」と、晋助は何かの衝動に襲われたように突拍子もないことを口にした。
俺は青ざめて思わず晋助の肩を掴み揺らし、「どうかしている!」と怒鳴ってやった。周囲のスタッフの目がそこに集中する。
「必要ないんだ。今の俺には何一つ、余計な飾りはいらねえんだ。そうだ、髪も刈ろう。丸刈りにしてくれ。お前ならわかるだろう」
死ぬほどわかる。俺はそんな晋助に対して涙が出そうになるのを堪えながらそれでも、分かるものか、と言い返した。
晋助が首を横に振りながら、わかるはずだ、と悲しそうに言ってきた。
「最後の作品なんだ。俺のすべてが作品になるんだ。お前に撮ってほしい。丸裸になった俺の姿を」
「お前をそんなふうにしたのは、俺のせいか」
「そうだ。感謝しているさ。俺からSHINをとったら空っぽのどうでもいい人間だ。お前は俺を救ってくれたんだ。あの人ゴミに埋もれてそのまま死んでしまいそうだった俺を」

俺は今、晋助に何を求めているのか。これ以上の被写体はこの先にも存在しないだろう。
その被写体を撮れる立場にある俺は、写真家として喜ぶべきだ。
しかしどうだろう。俺はとても悲しい気がしてならないのだ。
晋助が芸術を求めるが故に自分の肉体を破壊していき、精神をも狂わせていくその姿に、たまらなく胸を痛めつけられるのだ。
なぜか。俺はおそらく晋助に人並みの幸せを手に入れてほしいと、心のどこかで願ってしまったに違いない。
多くの人間をこの業界に陥れ、晋助と同じような末路を辿らせた俺に、そんなふうに願う資格などないのかもしれないが。

「お前は引退後の生活がある」と俺は声を落として晋助に言い聞かせた。
おそらく無駄なことだろうが、一時の衝動で去勢を望んでいるのだとしたら、何としても俺はそれを止めなければならないと思った。
だが晋助は苦笑しながら言うのだ。
「俺はあと数年も生きられないよ。たぶんね」
死期を悟るような眼差しに、俺はもう、返す言葉が見つからなかった。

女性ホルモンの大量投与、骨を細くする整形手術に加え、精神安定剤を飲みながら過酷なスケジュールをこなしていた晋助は、
一歩間違えれば廃人同然の身体なのだ。
俺が初めてカメラを向けた時の晋助は、既に女の輪郭をしていた。その時点で彼は、SHINという作品に自分の寿命のすべてをささげてしまっていたのだ。
作品の寿命は晋助の寿命だということを、俺はとっくの前から知っていたはずなのに。
俺の仕事は、残りわずかな命を形にするという、とてつもなく重い役割だった。

「わかったよ」
俺も彼と共にベッドの上で苦しまなければならない、と思った。
晋助は一言だけ「ありがとう」と呟き、俺の肩を叩いた。
「彼女には、何て説明すればいい」
「もちろん、俺の口から言う」晋助の妻である彼女は、俺以上の苦しみと戦わなければならないだろう。
彼女はいくつなのだろう。少なくとも晋助よりはうんと下なのではないか。
「まだ22なんだ」という晋助の言葉に、俺は驚いた。それでは尚更可哀そうだ。
夫が去勢すると言って、簡単に受け入れる妻などそもそもいないだろう。
「彼女を縛るつもりはない。なぜなら彼女は、俺の数十倍、長く生きなければならない」
「その時はどうする」
「離婚届にサインする、だな」

陰茎全摘術は大手術だ。まずは医師とのカウンセリングの後に手術の予約を入れ、無事去勢手術を成功させる。撮影は傷が塞がってからになる。最低でも半年後になるだろう。
少し時間がかかりすぎるのでは、と周囲の声もあがったが、「俺がちょうど三十路になる頃で、しかも温かくなるから丁度いいじゃないか」と、
晋助はもしかしたら人生で最後の夏になるかもしれないその日を、瞼の裏で思い描いていた。
まるで自分がいかに美しい死に方をするか、を一日中考え込んでいるように。

ある日、晋助が一枚の紙を持ってきた。『離婚』の二文字が垣間見えたので、やはりだめだったのか、と尋ねると、晋助は苦笑いした。
「破られちまったよ」と見せられたそれは、真っ二つに引き裂かれていた。
「彼女に悪いことをした。俺は彼女を信じちゃいなかった」と、紙はくしゃりと丸められてゴミ箱に捨てられた。
「俺が去勢をするから離婚してくれ、と予めサインしたのを渡したんだ。そうしたら彼女は泣きだしちまった」
「去勢をするから?それとも、離婚しろと言われたから?」
「俺は前者だと思ったら、何とこれが後者だった。彼女は俺がどんなになっても一緒にいたい、とはっきり言ってくれたんだ」
その時の晋助の表情には人間的な温もりがあった。彼は恐らく、この上なく嬉しかったに違いない。
「前に彼女と話した時、彼女は言ってたよ。私はいつだって夫を一番理解していたい、と」
俺は記憶のページを捲りながら、彼女の言葉を自らの舌にのせた。
「俺は引退したら、死ぬ直前まで彼女以外のことは考えない」
「その言葉を、ちゃんと彼女に言ってやるんだ」
悪あがきでもいい。SHINが死んでしまったその後も、晋助は夫として少しでも生きて、彼女と愛を育めばいい。

2か月後に手術をしたが、暫くは入院だという。
俺はその頃仕事には困らない人気者だったので、晋助が30の誕生日を迎えるその日まで、一度も顔を合わせなかった。
俺はグラビアアイドルの撮影で上海まで飛んでいた。新人で張り切っていた彼女には失礼だが、俺にとっては休暇のようなものだった。
俺にも息抜きが必要だったのだ。
晋助から久しぶりに電話があったのは上海から戻って数日経った時だった。

すぐ事務所に来てほしいと頼まれたが、俺は夜の11時までスケジュールがぎっちりだったので、翌日を迎えた頃に行くことを約束した。
「待ちかねた」と晋助は俺を迎えて抱きしめてきた。彼は帽子を深く被っていた。
撮影用のベッドがある一室まで行き、「女房の次はお前に見せることに決めていた」と言いながら、その場で服を脱いだ。
俺は晋助の劇的な変化を目の当たりにしながら、出来る限り冷静でいようと努めた。
顔だけは繕えても、どんな言葉を送ればいいのだろう。
全裸になった晋助は、違う世界の生物のように思えた。
頭は僧尼のように丸めていて、足を開けばそこに男の象徴とされるものは無かった。

「女房にこれを見せたら、泣きながら舐めてくれたよ」と傷口に指を宛がう。
女の気持ちなど理解できないが、俺が晋助の女房の立場に立ったらそんな真似は出来ないだろう。
彼女が俺より遥かに大きい人間に思えた。
晋助がどんな姿になっても愛し続けるのが彼女なら、俺は、
「お前がどんな姿になろうが、俺は目を背けずにシャッターを切り続けるよ」
それでいい、と晋助は笑った。

晋助が三十路を迎えた1週間後、撮影は開始された。
初日には晋助夫人も現場を見に来ていて、写真家として、また妻として晋助を支える者同士、俺と彼女は抱き合った。「人妻に手え出すなよな」と後ろから晋助に茶化された。
ベッドの上で服を脱ぐ晋助のもとに彼女が駆け寄り、夫の身体を案ずる言葉を何言かかけていた。
「今日は大分楽だ」と頬を撫でながら彼女を安心させようとする晋助は、一人の男だった。
俺は再び溢れんばかりのものを抑え、準備はいいか、と声をかけた。
晋助夫人は部屋を出た。夫の裸の撮影など見たくないからだと俺は勝手に思い込んでいたが、後で晋助に聞いたら、
「彼女がいると気が緩んでしまう。単にそれだけのことなんだ」と言うので、この夫婦にそんな馬鹿げた質問をするべきではなかった、と反省した。

「スタッフが解散しても、お前は残って俺が眠る間もカメラを構えていてくれ」
昼間はポーズもつけるが、無防備な姿も撮ってほしいというのだ。
「俺はお前の言うとおりにするが、俺なんかがいて眠れるのか?」
「お前と俺は心をひとつにすると言っただろ」晋助は真っ白な手足を投げ出して目を閉じる。
暫くすると寝息が聞こえてきたので、本当に睡眠状態に入ったのかといささか驚いた。
俺は慌ててレンズを覗いた。晋助を起こさぬように覆いかぶさり、上から見下ろした。

赤ん坊だ、と思った。
人の起源と終焉を同時に撮影している気分になり、俺は夢中でシャッターを切った。
ベッドから下りて、横顔を捕えた。本当に絵になるなこいつは、としみじみ感じた。
神話の時代に出てくるような女神が復活を遂げる直前の姿のようにも思えるし、棺の上の目覚めることのない人間のようにも思える。
それでも、晋助はただの人間なのだ。
途中で視界がぼやけたと思い、カメラを下ろすと、俺は自分が涙を流していることに気がついた。
長いこと人を陥れる世界に身をおいていた俺の心も、そこらのロボットではないのだと実感した。

「これを表紙にしよう」
何百枚という写真を、物凄い勢いでチェックし終わった晋助が声をあげる。
スタッフ全員が「表紙にするには過激すぎる」と即却下しようとしたが、俺は晋助に賛成だった。
その写真は晋助の全身が映っていて、両脚を大きく開いており、男性器のなくなった局部が丸見えだった。
それだけなら俺も反対しようかと思ったが、その写真の晋助の表情に、俺は胸を打たれた。
丸坊主にし、ペニスを切った痕を見せつけながらも、写真の中の晋助は子供のように無邪気に笑っているのだ。
衝撃的で過激な内容ではあるが、これ一枚でこの写真集のすべてが分かる、と言っても過言ではない。
「これが今の俺だ。俺の人生のすべてだ」

だがさすがにこのままの表紙では発売出来ないとのことで、結局別の写真(晋助が頭を丸くしたことのほうが強調されているもの)が印刷されているカバーをつけ、
中表紙にすることになった。
それでは晋助の努力が水の泡だと思い、何とかこれを表紙に出来ないかと頼み込んだ挙句、
これを表紙にした数量限定版ということで通販のみの発売なら、ということになった。
過激なものであれ、晋助のファンなら必ず購入するとは思っていたが、数量限定版は発売日にあっという間に売り切れてしまった。

ネットの掲示板では晋助の引退についても騒がれていたが、限定版の表紙や中身に関しては「ショックだ」とか「チ●コ切るとかキモイ、キチガイ」などと、
痛烈な批判も書きこまれていた。
一方では、「SHIN様にしか出来ない。彼は天才です」「これは最高傑作」など芸術面において評価するファンも多く存在した。
新聞やテレビでも一部報道されており、深夜のニュースでは特集まで組まれてしまった。
良くも悪くも話題性で晋助の最後の作品は在庫切れになった。

マスコミも晋助をいじくることに飽き始めた頃、晋助が「俺が死んだら、彼女が追いかけてこないように見張っててくれ」と冗談交じりに告げたのを最後に、
俺と晋助が二度と会うことはなかった。
都会から大分離れた場所に家を建てた、ということまでは聞いていたが、それ以来俺も当時のスタッフも誰ひとり彼とは連絡を取っておらず、
晋助が死んだ、ということは、数か月後に晋助夫人からかかってきた電話で初めて知った。

「これ、夫と私の」
彼女は墓前に花を添えて、俺にその写真を渡してきた。
引退後に夫婦で旅行にでも行った時のものだろうか。
だいぶ老けたな、と思った。モデル俳優という職業から離れて、大したケアもしなくなったのだろう。かつ今までのストレスが一気に顔に現れたという感じだった。
お世辞にも年相応とは言い難いほどの老化ぶりである。
晋助はホルモン摂取をやめていたせいか、ほんの少しだけ顔の輪郭が男らしくなっていて、彼女の肩に手を回し笑顔を向けていた。
ごく普通の夫婦ではないか、と俺は微笑ましくも思った。

いいものを見せてもらった、と言って返すと、彼女は嬉しそうに「引退してから少しだけ夫が求めてくるようになった」と写真をバッグにしまいこんだ。
少なくとも今までは彼女が求めない限り手は出さなかった晋助が、進んで胸を触ってくれるようになった、と言う。
「本格的なセっクス、というレベルではないけど」と彼女は照れ臭そうに笑う。
心温まる話ではあるが、一方で俺は罪悪感を抱いた。
「あなたは俺を恨んじゃいないか」と彼女に尋ねた。彼女は首を横に振り、「夫はあなたを必要としていたし、あなたがいなければ私と夫はありえなかった」とはっきり答えてくれた。
俺は彼女の前に行き、晋助に酒の瓶を捧げた。「晋助があなたを選んだ理由が、よくわかるよ」

晋助は俺よりも若くして死んでしまったが、おそらく俺よりも多くのモノが見えていたような気がする。
俺が生きて行くがために捨て去ってしまった感情を、彼は自らの肉体を傷めつけながら拾っていった。
彼は短い人生の中で見出した人並み以上の幸福を、意識を手放すその時まで抱いていたにちがいない。

「どこへ?」「撮影さ。約束が入ってるんだ」
俺は荷物を肩から提げて、夫人に背中を向けた。
「頑張ってください」「ああ、あなたも」
風が冷たすぎる、と俺は解いていたマフラーを巻きなおした。
一人の男の人生がしっかりと焼き付いているこのレンズを、おそらく二度と覗くことはないだろう。

終。


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