捧げもの

□little rest
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勝手知ったる、井上ン家の台所。
コンロの前に立って、小さな鍋を見守る。

温めているのは、甘酒。
酒粕のじゃなくて、ちゃんとした麹仕立ての奴。
これにホンの少し生姜の擦り下ろしを入れて飲むのが、ここ最近の彼女のお気に入り。

沸騰直前で火から下ろし、大きめのマグカップ二つに注ぎ分ける。
用意しておいた生姜をひとつまみずつ落としながら、脳裏に蘇るのは昨夕の電話での会話……。





「……ごめんなさい。この週末…そっちに行けなくなっちゃった」
受話器の向こう側から聞こえた、消え入りそうな彼女の声。

「どうした? 具合でも悪いのか?」
あんまり弱々しい声から病気を疑った俺に、そうではないと返事して。

「仕事が……どうしても終わらなくて………」
「へぇ…珍しいな……」

俺は軽く、目を見開いた。
仕事を理由に彼女がデートのキャンセルを申し出るのは、多分…彼女が幼稚園教諭として働き始めてから、初のことだ。

「今月はもともと行事が多くて…ちょっと押せ押せになってはいたんだけど……」

ぽつりぽつりと彼女が語るには、昨日の午後、降園した担当園児の親から、目を離した隙に子供が居なくなってしまった……と、電話があったらしい。
半狂乱の母親をなだめ、一緒に近所を探し回って……それで、午後済ます予定だった作業がまるまる残ってしまったのだという。

……ちなみに。
居なくなったと思っていた子供は、自宅の押入から見つかったそうだ。
こっそり入り込んで遊んでいるうちに、眠ってしまった……というオチだったそうで。

「週明けの月曜日に、間に合わせなきゃならないの。
だから……本当に本当に申し訳ないんだけど、今回は………」
「じゃあ、俺がそっちに行くよ」
「……え?」
「今月は金銭的にも時間的にも余裕有るし……さ。
勿論、俺が傍に居ちゃあ、お前の仕事の邪魔になるってんなら止めるけど」
「邪魔なんて事はないけど……でも、きっと何も構ってあげられないよ……?」
「いいよ。その代わり俺が構ってやるから」
「へっ?!」
「食事とか、作ってやるよ……と言っても、たいしたモンは作れねぇから、あんまり期待されても困るけどな」
「そんな…悪いよ………」
「何で? 何時だったか…俺がレポート終わんなくてデートおじゃんにしたときには、お前がそうしてくれたじゃねぇかよ?
良い機会だから、お返しさせろって」
「でも………」
「出かけたりできなくてもさ…傍に居られりゃ、それでいいんだ。俺は……」
「黒崎君………」

ゆっくり、二呼吸ほどの間を空けて。

「………じゃあ…来てもらっても、いい?」
躊躇いがちに届いた、声。

「ああ、喜んで」
俺がそう返事をすると、ふっと彼女が笑う気配がして。


……ありがとう。


いつもの穏やかさを取り戻したソプラノが聞こえた瞬間、思わず俺の顔も綻んだのだった……。





マグカップを手に、部屋に戻る。
そっと部屋の入り口を開けて中を覗き込めば、真剣な表情で作業を続ける彼女の姿。

井上の集中力が人並み外れている事を知ったのは、つき合い始めてからのこと。
今も、俺が部屋を空けていた事にすら、多分気づいていないんだろうな……と思う。
実際、俺が今日ここに来たときも、呼び鈴鳴らしても応答がなくて…それは予想済みだったんで…合鍵使って勝手に入らせてもらったくらいだ。

まぁそのくらいだからこそ、俺たちと行動を共にしながらもあの成績をキープ出来ていたんだろうし。

反面……一度『あっちの世界』に旅立ってしまうと、なかなか戻って来られない所以でもあるのだろう。

ただ……よく「寝食を忘れて」なんて言うけれど。
彼女の場合は「寝」はともかく「食」を忘れる事はまずないから、まだしも安心だったりするのだ。



……いやはやホント、集中力にもホトホト感心するけど……さ。



時計を見上げる。
夕食をとってから、約四時間経過。

『そろそろ、だな』

内心で俺が呟いた直後。

ふっ……と、彼女の手が止まる。
顔を上げ、どこか虚ろな瞳をして。
そして、呟く。



「お腹、空いた……」



『………ほら、な?』
たまらず、吹き出す。



彼女の腹時計の恐ろしいまでの正確さにも、心底舌を巻く俺だった。









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