愛は静かな場所に降りてくる

□十月
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昼休み、院内食堂の一角で。
日替わり定食の膳を前に溜息を吐いた俺の頭上から、落ち着きのある女性の声が降ってきた。

「溜息吐くと、幸せが逃げますよ」
「師長………」

振り返った先、やはり定食の乗った盆を手にした外科の看護師長が立っていた。
丁度俺のお袋くらいの年齢の彼女は、師長を勤めるだけあって、厳しいけれども懐深く、多くの職員に慕われている。
その彼女が、俺の真後ろでにこりと笑った。

「ご一緒しても?」
「あ、はい。どうぞ……」

慌てて頷き、脇に置いていた資料を退ける。

失礼……と、無駄のない動作で隣席に腰掛けた師長は、目の前の食事に手を合わせると、ご飯茶碗を手に取りながら俺に言った。

「食欲なさそうね。どこか具合でも悪いの?」
「………いえ、そんな事は無いんですが」

いい淀み、手元を見つめる。

「そういえば……師長はお子さん、いらっしゃるんですよね?」
「ええ、男の子が二人ね。もうどちらも成人して、家を出ているけれど」
「そうですか………」

それきり黙り込んでしまった俺を、怪訝そうに見て。
次の瞬間、彼女は「あはん!」と悪戯を思いついたような子供のような笑みを口元に刻んで、ぱちんと指を鳴らした。

およそ、普段の師長からは想像もつかないその表情と行動に、度肝を抜かれて呆然としている俺に向かって。

「もしかして……奥様、オメデタ?」
彼女は声を潜め気味に尋ねてきた。

「あ……はい、実は………」
小さく肯いて。

「すみません…安定するまではあまり口外しない方が良いかと思って、未だ誰にも言っていなくて」
「それは、賢明な判断だと思うわ。安心して。職業柄、口は固いつもりよ」
「有り難うございます」

ぺこりと頭を下げた俺に、柔らかく微笑む師長。
その表情に、何となく…在りし日のお袋の面影が、重なる。

「……で、どうなの?」
「あ、はい。一昨日の検診で心音が確認できたようで……」
「あら、本当に未だ初期なんだ」
「ええ……ただ………」
「ただ?」
「いや……その、食事中に何なんですが…悪阻がかなりキツいようなんです………」


脳裏に、ベッドで体を丸めるようにして横たわる、ヨメさんの姿が浮かんで。
俺は再び、ため息を吐いてしまった………。










ルキア一家が遊びに来てくれた、翌日。
ヨメさんは早速、病院に出向いた。

しかしながらその日は、妊娠の兆候は見られるものの、未だあまりにも初期過ぎて心音が確認出来ず。
二週間後に再来院するようにと言われて、帰ってきた……との、ことだった。


その二週間を待つ、間に。


ヨメさんの具合は…それこそ坂を転げるように急激に悪くなっていった。
間断なく襲う嘔吐感と目眩に苦しみ、食事をしても大概は吐き戻してしまう。
だからと言って食べずにいれば、空腹時にはもっと気分が悪くなってしまうらしい。


そんなこんなで……今、彼女は主に、バナナだけを食している。
美味しく感じるから……では、なく。
出ていく時に楽だから……と。
そんな、理由で。

パンは苦しく、米は…まるで石か砂が通ったのかと思うほど、ざらざらとして痛いのだそうだ。

酷いときなど、こくりと水を一口飲んだ…その直後。
口元を押さえてよろけながら、トイレに向かうこともある。
そんな彼女に対して俺がしてやれる事と言えば、背中をさすってやる事くらいで……。

代われるものなら、代わってやりたい。
でも、そんな事ができる筈もなく。

何の役にも立たない自分が情けなくて、唇噛んで俯くばかりで………。





そんな事を、ぽつりぽつりと師長にこぼす。

「すみません、ぐちぐちと………」
「ああ、別に構わなくてよ? 吐き出して楽になることもあるでしょうしね」
「多分……こういう事って、まずは自分の母親なんかに体験聞いたり相談したりするんだと思うんです。
でも……生憎、俺達にはどちらにも居ないから………」
「親だからこそ、相談するんじゃなかったって後悔することもあるけどね」

そう、言って。
温厚な彼女にしては非常に珍しいことに、憮然とした表情を作って、ふん……と軽く鼻を鳴らした。

「私の母は、自分が殆ど悪阻無かった人だから、辛さを理解してもらえなくてね。
怠け病だの気合いの問題だの……私は罵られてばかりだったわ。
先生の奥さん程酷くなかったけど、それなりに辛くはあったんだけどねぇ」
「それは……しんどいですね」
「悪阻はともかく、風邪も滅多にひかない、乗り物酔いも二日酔いも経験無いって人だったから……。
24時間乗り物酔いとか二日酔いしているような状態……とか。
そんなふうに例えると、大概の人はなんとなく辛さを理解してくれたんだけど、それすら通用しないんだもの。
誰の言葉だったかしら? 病気したことない人を友達に持つなとか何とか言ったのは………。
もう、ね。本当にその通りっ!……とか思ったわね。
他人ならまだしも、実母だから余計に遠慮なくずけずけ言われるし……」

くつくつと、喉の奥で笑う師長。
多分……当時は相当、辛かった筈なのに。

いつか……数年の時を経た後で、ならば。
俺もヨメさんも、今の状況を笑い話に出来るのだろうか………。

「あは、私もつい自分語りしてしまったわ。ごめんなさい」
「いえ…参考になります」
「気を遣わなくてもいいわよ」
「本当ですって」

苦笑混じりに、首を横に振って。
そして俺は三度、ため息を吐いてしまう。

「大変ですね、女の人は………」
「まぁ…悪阻の症状は、本当に人それぞれですけどね。
全くない人も居れば、水すら受け付けなくなって入院する人も居るし」
「師長はどうやって乗り切ったんですか?」
「私? 私は定番の酸っぱいもの……かな。梅干しや檸檬味のグミやタブレットなんかを、常に持ち歩いてたわね。
後はもう、ひたすら耐えて寝てるしかなかったわ」

そこでひとつ、彼女は肩を竦めて。

「でも…先刻も言ったばかりだけど、本当に人それぞれなのよ。
私の友人達を例にとってみても、正に千差万別だし」
「へぇ……例えば?」
「嗅覚と味覚が麻痺しちゃって、唯一味がわかるのがカレーだったから、連日三食カレー食べて過ごした子とか。
逆に、嗅覚が異常に敏感になりすぎた子も居てね。
香水は言わずもがな、洋服に僅かに残った柔軟剤の香りすら、駄目。
それまで気にも止めなかった、同僚の整髪剤の香りすらキツいって言ってね。
ずーっと、マスクしっぱなしで過ごしてたって、話よ。
何かしら口に含んでいれば耐えられたからって、起きている間中ひたすら食べ続けて、体重20キロも増えちゃった子も居たなぁ。
……そうそう。
それまで揚げ物とか肉類が苦手だったのに、ね?
やたらとカツ丼が食べたくなったって言って、首をひねってた子も居たわねぇ。
後は、上二人の時は全く悪阻がなかったのに、三人目の時は酷く苦しんだ挙げ句に、分娩台まで引きずった……なんてケースも、ね」

天井を見上げ、指折り数えながら、語る師長。
俺はただただ驚愕し、目を見張るばかりだった。

「まぁ…そんなわけで、奥様の具合を軽減できるような有効かつ具体的な助言は出来ないのだけど………。
ただ一つ確実に言えるとすれば、先生が奥様につきあって断食したところで、何も得るものはないって事かしらね」
「…………ですね」
「心配なのは、わかりますよ。
でも……奥様がそんな状態なら尚更、先生はしっかり食事摂って元気でいなくちゃ。
それで、家事を出来るだけ代わってあげるとか……ね?
その方が、よっぽど、奥様は助かってよ?」
「あ、はい……それはやってる…つもりです。
一人暮らしの経験もありますし、大概の家事はこなせますから。
完璧か…と問われれば、自信はありませんけど……そこそこ、には」
「大変よろしい!」

にっこり、と。
手伝いを首尾よくこなした子供を誉める、母親のような顔をして、師長は笑って。

………直後。

ふ……っと表情を消し、酷く虚ろな表情で、彼女は空を見つめた。
それは、ほんの一瞬のことだったけれど。
俺を困惑させるには、十分で………。

「師長………?」
躊躇いがちに、声をかける。

ゆっくりと俺を振り返った彼女、は。
一瞬前とは別人のような、悪戯っぽい笑みを口元に浮かべて俺に言った。

「……冗談抜きで、ね? 産前産後の夫の態度は、何年も後になってから、夫婦関係に大きく響いてくるわよぉ?
実際そういう統計データが、新聞とかで発表されてた記憶があるわ。
乳幼児期までの子育てに非協力的だったり、妻の気持に寄り添わなかった男は、妻からの信頼を大きく損なうんですって。
結果、かなりの高確率で、将来的に三行半突きつけられるって話」
「う、わ………」

思わずたじろぐ、俺。

「と、言うわけだから……くれぐれもそんな末路を辿らないよう、頑張ってね、黒崎先生?」
「………肝に銘じておきます」

背筋に何やら冷たいものが伝うのを感じながら、俺は慌ててご飯をかき込む。
師長もまた、そんな俺の様子を横目にくすくすと笑いながら、自分のトレイ上のおかずへと箸を伸ばした。












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