愛は静かな場所に降りてくる

□十一月
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11月に入ってからも、相変わらず悪阻は続いていた。
それでも下旬に近づくにつれて、少しだけ…本当に少しだけれど、目眩や吐き気が和らいで来たような気がする。

「クリスマスまでには、治まっているといいんだけどな……」

ちいさく独りごちたとき、玄関の鍵を回す音がして。
ただいま……と、仕事から戻った一護君の声が聞こえた。

静かにキッチンを横切る足音。
寝室の戸がそっと開き、ひょこりと覗いたのは明るい橙色の髪。

お帰りなさい……と微笑めば、彼もまたやわらかく笑んで。
ベッドへと近づいて縁に腰を下ろしながら、子供をあやすように私の髪を梳く。
一護君の手はいつだってとても優しくて、私はついつい、うっとりと目を閉じて甘えてしまうのだ。

そのまま睡魔に襲われそうになって。
慌てて目を擦りながら、レンジの中に夕飯のおかずが入っていることを告げた。

「温めて、食べてね?」
「無理して作らなくていいって、言ってるのに……でも、ありがとな?」

くしゃくしゃと、髪の毛をかき回される。
照れ臭さを隠したい時の、それは彼の癖。

「あ……そうだ!」

ふいに止まる、手。
いぶかしんで彼を見上げた私の瞳を、のぞき込むようにして。
にこっ……と笑いながら、一護君は言った。

「明日の検診……俺、付き添うからな」
「………え?」

思わず、目を見開く。

「だって……一護君、お仕事は?」
「先輩にシフト変更頼まれて、さ。明日…俺、非番になったんだ。
それで、折角だから一緒に診察結果とか聞いてみようかなって。
先輩医師や子持ちの看護師さんからも、一度くらいは同席してやれ……って、言われてるし」

ちょっと、恥ずかしいけどな……と。
鼻の頭を擦りながら、苦笑する一護君。

曖昧に微笑みを返しながら、私は。
掛け布団の下、一護君からは隠れて見えないところで、きゅう……とシーツを握りしめていた。


『どうしよう………』


………実は。
これまでの、診察結果の中で。
一護君には未だ言っていない事が、一つだけあった。

何度も何度も、言おうとして。
それでも、どうしても伝えられなかった事が………。





食事してくる……と、一護君がキッチンへと移動して。
再び独りで横たわる、明かりを落とした部屋のベッドの上。

下腹部に手をやり、そっと子宮のあたりを撫でながら。
深く深く…私はため息を吐いた………。















「特に、問題は無いようですね」

内診を終えて。
診察室で所在無げに待っていた一護君の隣に並んで腰掛けると、担当の女医さんが柔らかく微笑んだ。

「それにしても…本当に良かったですねぇ、黒崎さん!」

超音波診断の結果画像をプリントした、小さな感熱紙を眺めながら。
向かいに座る先生が、心底嬉しそう笑う。

「心配していた赤ちゃんの方も…少し小さめではありますけれど、順調に育っているようですよ」

先生の、言葉に。
一瞬、涙が出そうになるほど喜びを感じながらも。
隣に座る一護君が訝しげに眉根を寄せた事に、身体がぎくりと強ばるのを感じた。

「………心配していた、方?」

呟かれた言葉に、先生が「あら?」というような顔をして。
私と一護君の顔を、交互に見やる。

「黒崎さん……もしかして旦那様には、何も話していないの?」

黙って肯いた私に、先生は小さく溜息を吐いた。

「……まぁ…言い辛かったのは分かりますけれどね………」
「あの……っ!」

たまりかねたように、一護君が口をはさむ。
ちらりと視線を向ければ、彼の眉間の皺がいつもよりも倍増していて。
私は悪事が露見した小さな子供のように、どくり……と。
心臓を痛いほどに、強く高く鳴らしてしまった。

慌てて俯き、膝の上で組んだ自分の手に視線を落とす。
どくどくと騒ぎつづける心臓に、呼吸が次第に浅くなっていった。

「……一体、どういう事ですか?」

一護君の問いかけに、先生は黙って彼に感熱紙を渡す。
………直後。
彼が、息を飲む気配がして。
掠れた声が小さく呟くのを、聞いた。

「………双子?!」
「そうです。奥さんのお腹の赤ちゃん達は、二卵性の双生児です」

先生が静かな声で、肯定する。
一護君が私の方へと顔を向ける気配を感じ、私はいたたまれなさに、ますます視線を下へと落とした。

「その画像の…少し小さい方の赤ちゃんなんですが……前回までの診察では、発育の状態があまり良くなくて。
もしかしたらそのまま育たず、身体に吸収されてしまう可能性もある……と、奥様にはお伝えしていたんです。
ですが……今日の様子を診る限り、もうその心配は要らないかと」
「そう…なん、ですか……」

ゆっくりと息を吐き出しながら、椅子の背もたれに身体を預けて。
一護君はそれきり、口をつぐんでしまった。

彼の方へと、ちらりと視線を向ければ。
目に入ったのは……膝の上で固く固く結ばれた、彼の両手拳。



『…ああ……やっぱり、怒ってる………』



無意識のうちに上がった手が、服の胸元をぎゅっと掴む。
そうする事で、身体が震えそうになるのを必死になって堪えた。

「血圧も尿検査の結果も、特に問題はありません。
また三週間後に、予約を取ってください」
「はい……有り難うございました………」

頭を下げ、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
一拍遅れて立ち上がった一護君もまた、「有り難うございました」と、先生に頭を下げて。
踵を返し、私の先に立って待合室へ続くドアへと向かった。

私が追いつくのを待って、ドアを開いて。
身体で閉まろうとする扉を押さえて、一護君は私を先に通らせる。

すれ違いざま、私の肩を抱くようにして。
そっと前へと押し出してくれた彼の手は、とても優しかったけれど………。

思わず降り仰いだ、その顔…は。
静かすぎるほどに静かな、無表情で………。


ぞくり……と。
背筋を、冷たいものが這う。



「………先に、車に戻ってる」

私に視線を向けないまま、低い声でそう告げて。
受付前に私を残し、一護君は独り、建物の外へと出て行った………。












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