愛は静かな場所に降りてくる

□十二月
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「わぁ………!」
 
俺の、隣。
実家のリビングの入り口で、ヨメさんが感嘆の声を上げた。

きらきらと。
昔々の少女漫画よろしく、瞳の外にまで星を飛ばしかねない勢いで。
彼女が今、うっとりと見とれているのは、ダイニングテーブルの上。
所狭しと並べられた、沢山の料理の皿の数々。
その大半は、ヨメさんの好物だ。

「お姉ちゃん、ようやっと悪阻明けたんだもの。存分に味わって、楽しんで欲しくて」

カウンターの向こう、笑顔でキッチンから声をかけてきたのは、遊子。

「姫姉、惚けてないで座って座って! 一兄も!!
ヒゲもそろそろ、上がってくる筈だからさ。そしたらすぐに、始めるよ!」

ワインとビールを抱えながら、テーブルの向こう側で笑ったのは、夏梨。

二人の言葉に、ヨメさんが俺を振り仰いで嬉しそうに笑う。
笑い返しながら、彼女の肩を抱くようにして、一緒にリビングに足を踏み入れて。
耳元で、そっと囁いた。

「涎、出てるぞ」

ばっ……と。
慌てて口元に手をやるヨメさん。

「う、そ」
「………い〜ち〜ご〜く〜〜〜んっ?!」

上目遣いに俺を睨んで、ぷうと頬を膨らますけれど。
その怒り顔には、迫力の欠片もなくて。
思わず吹き出し、声を立てて笑う俺の背中を、ヨメさんがぽこぽこと殴る。
肩越しに振り向いて、その真っ赤な顔を見て更に笑いながら。
心の中では、泣きたくなるのを必死で堪えていた。



『………織姫、だ』



……いずれ明けると、判っていても。
悪阻真っ直中のヨメさんを見ているのは、辛かった。
勿論……一番辛かったのは、ヨメさん本人だったろうけれど。

ベッドにくったりと、沈み込んで。
きつく目を閉じ眉間に皺を寄せ、ひたすら不調に堪える彼女を、前に。

俺は、本当に無力で………。

何時だったか「髪を梳かれると眠くなる」と言っていたのを、思い出して。
酷い嘔吐感に寝付けず苦しむ彼女が、一分一秒でも早く眠りの国へと発って行けるよう……。
側に居られる夜には、可能な限りそうしてやって。

出来た事と、言えば。
例えばそんな些細な事と……必要最低限の、家事くらいのもの。

それでも彼女は、いつだって。
「有り難う」って、笑って。
「負担かけて、ごめんね」って、うなだれるから………。

そう言わせてしまう自分が、余計に情けなくて。
かけてやるべき、気の利いた言葉も見つからなくて。

ただ黙って、彼女の手を握った。
「気にすんな」……って、ぎこちなく微笑みながら………。



そんな日々が終わったの、は。
月めくりのカレンダーが残り一枚になった、十二月。
今月に入って、割とすぐの事。

日に日に、顔色が良くなって。
トイレに駆け込む回数が、目に見えて減って。
寝付きが良くなって、眠ると朝まで熟睡出来るようになって。
食べられるものも、食べられる量も、日毎に増えて。
こなせる家事も、多くなって。
そして、何よりも。

あの…日溜まりのような笑顔が、戻っていた。

悪阻の始まる以前と、同じ。
無理矢理浮かべたのではない、至極自然で穏やかな微笑み、が。
彼女の形の良い唇の端に、常に湛えられるようになったのだ。

そして……改めて、思い知る。

自分がどれだけ、その笑顔に護られてるか……ってこと。
どれだけ救われて、癒されて……元気や勇気を貰っているか……ってこと。

それは恐らく俺だけじゃなくて、ヨメさんを慕う誰もが感じることだから。
遊子は朝から台所に籠もって、料理とケーキ作りに精を出したのだし。
夏梨もまた、無理な日程を押して下宿先から戻ってきたのだ。

世間様より、二日ばかり早いけど。
クリスマスにかこつけたパーティーを、皆で楽しむ為に……。

親父なんざ10日も前から、今日の診療の受付を通常より30分繰り上げる旨、医院のドアに張り出してたっけ。



俺の選んだ唯一の存在を、家族もまた受け入れてくれて。
互いに、大切に想い合ってくれる………。

本当に嬉しいし、有り難い事だと思う。



相変わらずふくれっ面を続けているヨメさんを、椅子を引いて座らせて。
自分もまた、その隣の席に腰を下ろして。

「いい加減に、機嫌直せよ」

そう言いながら、ヨメさんのこめかみあたりに軽く口付けてみた。
それは妹達はキッチンの方に行ってて、死角で見えない筈…との判断から及んだ行為だった……の、だが。

「うっわー…相変わらず熱々ですこと!」

その言葉に、慌てて振り返れば。
にやり……と、実に人の悪い笑みをその口の端に浮かべた夏梨が、空のグラスの乗った盆を手に、こちらに向かってくるところだった。

途端に、ヨメさんは真っ赤になって俯いてしまったけれど。
ここで変に誤魔化したり照れて慌てたりすれば、かえって夏梨の思う壷だ……そう踏んだ、俺は。

「悪ぃかよ」

完全に開き直った態度で、胸を反らし気味に言ってやった。
すると夏梨は、肩をひょいと竦めて。

「いいえ〜全然! 寧ろあたしは感心してんの!
何時だったかなぁ……雑誌かなんかで、『生物学的には四年で相手に飽きる』とか何とか、読んだことがあってさ。
その時、結構げんなりした気分になったんだけど………。
一兄達の様子見てると、倦怠期の『け』の字も無いじゃない?
何となく、ほっとするのよねー」

そんな事を言いながら、グラスを卓上に並べていく。
軽口に対抗するつもりで身構えていた俺は些か拍子抜けしてしまい、逆に返す言葉を失ってしまった。

気恥ずかしさからくる居心地の悪さから、椅子の上で軽く身じろいで。
そっと横目でヨメさんの様子を伺えば、同じく前髪の隙間から上目遣いにこちらを伺っていた彼女と、視線が重なる。

口の端を僅かに持ち上げ、照れくさそうに小さく微笑むヨメさん。
つられた俺の口元も、思わず綻ぶ。

丁度その時、どすどすと大きな足音が廊下の方から響いてきて。
やはり大きな音を立てて開かれたドアの向こう側から、飛び込むようにして親父が部屋に入ってきた。

「おお、織姫ちゃん! 元気そうで何よりだ!!」

顔中くしゃくしゃにして笑いながら、テーブルへと近づく親父。
椅子から立ち上がり、ご無沙汰してます……と頭を下げるヨメさんに向かって大きく手を広げながら屈み込み、
「我が愛しの孫達も、元気に育ってるかなー?!」
と、あろうことかヨメさんに抱きついて腹に耳を当てようとしたところで、俺は容赦なく横から蹴りを入れた。

壁際まで吹っ飛び、そのままお袋の遺影に取り縋って、泣きながらお袋の名を連呼しつつ俺の所業を訴える親父。
その姿を見ながら、夏梨は深く深く溜息を吐いて。

「まぁ…同じ愛妻家でも、あれはあれで正直如何なものかと思うけど……ね?」

俺達に向き直りながら酷く真面目くさった表情で、そう付け足したのだった。













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