風の記憶

□第三章
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重量のあるものが草と大地を踏みしめる気配に、チャドは竜舎の寝藁を整えていた手を止めた。
顔を上げて耳を澄ませば、年若い男女のものと思われる声が耳に届く。
男の声には、聞き覚えがあった。
チャドの親友であり、主君でもある、橙色の髪をもつ青年のものだ。

手に持っていた熊手を壁に立てかけ、出入り口へと向かい、外に向かって扉を押し広げる。
壁などがそれなりに古びているのに対し、扉だけが真新しいのは、一週間前の夜中に、斬月が前の扉をぶち破ったからだ。

「自分で降りられるか?」
「はい、大丈夫です!」

屋外の明るさに慣れたチャドの瞳に、地に伏せた斬月の背から身軽に飛び降りる少女の姿が映った。
ふわりと広がった色素の薄い髪が、陽光に透けて黄金色に輝く。
そして遠目ながらも一護に向けられた少女の笑顔を目にして、チャドはすとん…と納得した。
季節は秋だが、チャドは少女の姿とその仕草に、新緑と花の香を含んだ清涼な風が吹き抜けていくような印象を受けたのだ。
加えて微笑みの深さと可憐さに、ほわり…と灯火が点るような暖かさが胸の内に広がっていく。

『……これは、一護が執心するのも無理はない…』

浅黒く精悍なチャドの顔に、仄かな微笑みが浮かんだ。
そのとき、気配を察したのか一護がチャドを振り返った。
一瞬目を見開いたあと、琥珀の瞳が柔らかく細まる。

「チャド…! 長らく留守にして済まなかったな」

一護の言葉に、チャドはゆっくりと首を横に振った。
そして背後の竜舎を指し示しながら、丁度寝藁の敷替えが終わったところだと一護に告げる。

「それは助かる! 斬月、お前も疲れたろう。今すぐ鞍をはずしてやるから、ゆっくり休むといい……と、ああ、そうだ! それより先に、チャド…お前に、紹介しなくては」

一護に呼ばれて、織姫がその隣に立った。
チャドはその厳つい面構えと見るからに頑強そうな身体故に、初対面の女性に怯えられることも多い。
しかし織姫は全く臆することなく正面からチャドの瞳をみつめ、ふわり…と人懐こい微笑みを浮かべた。

「織姫と申します。どうぞよろしくお願いいたします」

丁寧にお辞儀をする織姫の姿に、チャドの瞳もまた穏やかに細まる。
それが困惑の色を浮かべて見開かれたのは、織姫が「精一杯働きますので、よろしくご指導くださいませ」と言葉を続けたときだった。
チャドは元々表情変化が乏しいので初対面の織姫は気がつかなかったようだが、一護は違う。
幼馴染みである親友の様子を訝しみ、軽く眉を顰めたのだが、そのとき竜舎の中から「おぉん……」と控えめな鳴き声が届いた。

「炎月…! 中に炎月が居るのですか?!」

織姫の問いに、チャドは無言で頷く。
織姫はうずうずとした様子で、一護の顔を見上げた。
苦笑しながら一護が「行っていいぞ」と許しを与えるやいなや、織姫はお礼を言うのもそこそこに走り出し、竜舎のなかへと駆け込んでいく。
戸惑うチャドの肩を軽く叩きながら、斬月を従えた一護がその後に続いた。
チャドは少しの間、竜舎の扉をじっと見つめていたが、やがて意を決したように自らも竜舎へと踏み込んで……そして、信じられない光景を目にして、呆然とその場に立ち竦んだ。

炎月が織姫の肩にその首を無防備に預け、鬣を梳かれてうっとり目を細めている。
それは竜の性を考えれば、有り得ない姿だった。
しかも斬月までもが犬猫のような甘えた仕草で織姫にすり寄り、織姫の肩口を口の先で軽くつついて、自分の方に関心を向けさせようと必死になっているではないか。

「もう…! 斬月ったら、本当に甘えん坊さんなんだから!!」

くすくすと笑いながら斬月を振り返り、宥めるように鼻筋をさすってやる織姫。
くふん…という満足そうな斬月の鼻息と、炎月がごろごろと喉を鳴らす音を耳にして、チャドはくらり…と脳が揺れるのを感じた。

『……一体、どういうことだ?』

困惑を極めたチャドが、一護の横顔を見つめる。
もの問いたげなその視線に気づいて振り向いた一護は、しかしながら口元に苦笑をひらめかせて軽く肩を竦めただけだった。
一護とて、竜たちが織姫に懐く理由になど、皆目見当がつかないのだ。
この数ヶ月の間に織姫に甘えまくる斬月の姿を見慣れてしまったため、今更驚かないだけの話である。

それよりも一護は、次第に竜舎に近づいてくる複数の足音の方が気になっていた。
何やら嫌な予感がするなぁ…と眉間の皺を深めた直後に足音が止まり、ばぁんっと派手な音を立てながら、勢いよく城側の扉が開く。

「やーーっぱり、ここに居た!」

眉を逆立てて一護を睨みながら苦々しく吐き捨てたのは、竜貴だった。
その背後には、やはり険しい表情の鈴や真花、好奇心を隠さずに瞳を煌めかせる水色や啓吾、千鶴が控えている。

「全く…何で正面から帰って来ないの?! 独りならまだしも、連れがあるときくらいはきちんとしなさいよ!」
「……斬月に乗ってきたんだ、こっちに回るのは仕方がないだろう」

むっとした表情で一護は反論したが、それは寧ろ火に油を注ぐ結果となった。

「何が仕方が無い、よ! チャドが居るのは何のためなの?!
どうせ本当のところは、女連れで戻った姿を城の者に見られるのが恥ずかしいとか、そんな程度のくだらない理由でしょうよ!!」
「………」

ぐっ…と喉を詰まらせた一護の様子に、鈴が大きくため息を吐き、真花が「図星かよ…」と呆れ顔で呟く。
そのすぐ隣で苦笑する水色や啓吾らを含めて、一護は一同を険しい表情で睨め回したが、なまじ付き合いが長い故に怯む者はひとりも居ない。

負けじとばかりに一護を鋭く睨み返しながら、竜貴は足を前へと踏み出した。そして、おろおろと成り行きを見守っていた織姫へと近寄り、その目の前で片膝を着く。
織姫の背後では二頭の竜が低く唸りながら牙を剥き、威嚇の体勢をとっていたが、竜貴にとってはその姿のこそ、普段見慣れた竜のものだ。
よって、ちらり…と一瞥しただけで華麗に無視を決めこむと、竜貴は視線を織姫へと移し、その顔を真っ直ぐに見上げた。

「……織姫様でいらっしゃいますね?」
「は、ははは、はいっ!」

緊張に身体を強ばらせながら、織姫がこくこく…と頷く。
竜貴は目の前の少女を安心させようと、出来うる限りの優しさを込めて微笑みながら、「遠路遙々、ようこそお越しくださいました」と歓迎の言葉を口にした。

「私は竜貴と申します。常日頃は一護様の護衛を務めておりますが、本日は一心様の命により、織姫様のお支度の一切を任されました。
本来でしたらゆっくりと旅疲れを癒していただきたいところですが、何せ今日はもう、お式や宴までの時間がいくらも残っておりません。
どうぞ私たちを信じて、全てをお任せくださいますよう……」
「はぁ……そ、その…どうぞよろしくお願いいたします」

“支度”“式”“宴”という言葉を耳にして、織姫の脳内に複数の疑問符が飛び交う。
しかしながら、仕事着は全て支給品だという一護の言葉を思い出し、また一護が一週間ぶりに城に戻ったことで、何らかの儀式を含めた宴席でも設けられるのだろうと解釈した織姫は、早速今日から女官としての仕事を与えられるのに違いないと推測した。

『独りでいれば、兄様を失った哀しみについつい呑み込まれてしまいそうになるもの…。忙しく立ち働いていられるなら、それは寧ろ、願ったり叶ったりというものだわ』

そんなことを考えながら、足下に置いてあった旅行鞄に手を伸ばす。
すると、すかさず駆け寄ってきた真花に「お持ちします」と横から鞄を取り上げられてしまった。
更に、驚きと困惑に瞬きを繰り返す織姫の肩を、やはり小走りに寄ってきた鈴が、優しくもどこか強引な手つきで抱き支える。
竜貴は武人らしいきびきびとした動作で立ち上がると、まずは背後の千鶴に声をかけた。

「千鶴、あんたは急いでみちるを呼んできて」
「えぇーっ?! 何であたしがぁ…」
「五月蠅い、さっさと行ってきなさいよ! 仕立て部屋に許可証一枚で随時出入りできるのは、ここにいる人間の中じゃあんただけなんだから!」
「わかったわよぅ……」

不承不承という体で、千鶴が竜舎を駆け出ていく。
溜息混じりにその後ろ姿を見送ったのち、竜貴は織姫に向き直り、「では、参りましょう」と竜舎を出て自分についてくるよう促した。

「おい…ちょっと待てよ……っ!」

怒りも露わに、一護が一行を呼び止める。
振り返った織姫の不安と戸惑いに揺れる瞳に、一護は一層頭に血を上らせた。

「何を勝手なことをしている! その娘を、何処に連れて行くつもりだ?!」

怒鳴りながら駆け寄ってきた一護に対し、しかしながら竜貴は僅かに顔をしかめただけだった。
そして、実にさりげない動作で一護の前に回り込み、その視界から織姫の姿を遮るような位置に立つ。

「先刻も言ったけど……私達は、一心様の命に従っているだけよ」
「親父、の…?」

至極冷静な竜貴の口調と態度に、一護の怒気が若干殺がれる。
その隙を突くかのように、それまで何やら含みのある愉しげな微笑を浮かべて立っていただけの水色と啓吾が、すっ…と一護の両脇に移動した。

「……何だよ、お前ら…」
「時間的な余裕が無いのは、君も同様でしょ…一護」

戸惑う一護に、水色がにっこりと笑いながら告げる。

「そうそう! さぁ俺たちも早く支度しに行こうぜ、一護!!……ぐぇっ!!!」

陽気に声をかけつつ肩に腕を回してきた啓吾の鳩尾に肘鉄を食らわせると、一護は再び、竜貴を先頭にして竜舎を出て行こうとする一行を「待て!」と呼び止めた。
だが、今度は竜貴が何か言うよりも早く、織姫が声を上げた。
私なら、大丈夫です……と。

「織姫……」
 
一護を安心させようとするかのように、ふうわりと柔らかく織姫が微笑む。
それきり一度も背後を振り返らず、鈴に肩を抱かれるようにして、織姫は竜舎を出て行った。
茫然として一行を見送る一護の肩を、鳩尾をさすりさすり、宥めるように啓吾が叩く。

「あんなに可愛い子だもんね、一瞬たりとも側を離れたくない気持ちは解るけどさ…ほんの数時間の辛抱じゃん!
式と宴が終われば、そのあとはずーーーーーーっと一緒に居られるだからさぁ!」

にかっ…と笑う啓吾に同調するように、水色も「そうだよ、一護」と頷いた。

「織姫様の支度は女の子たちに任せて、君は君で、見劣りしないように身なりを整えなくちゃね。
あ、チャド…竜の世話が終わったら、君もちゃんと正装して、広間に来るんだよ!
折角一心様が、僕らなんかの席まで用意してくださるって言うんだからさ」
「ム……」

陽が落ちるのが待ち遠しいねぇ…と歌うような口調で言いながら、水色が一護を振り返る。
その、多くの女性を虜にしてきた笑顔が怪訝そうな表情に変わったのは、一護が眉間に深い深い縦皺を刻み、困惑をべっとりと顔面に張り付けていたからだ。

「……一護…?」
「お前たち…一体先刻から、何の話をしているんだ? 宴はまぁともかく…式って、何だよ。
一体このあと、どんな予定が組まれているというんだ?!」

一護の問いかけに、瞬きを繰り返しながら、水色と啓吾が顔を見合わせる。
そのまま気まずそうに黙り込んだ二人に業を煮やした一護は、たまりかねたように、背後に立つチャドを振り返った。

「チャド……」
「……仮祝言、だ」
「……………は?」
「一心様は今宵、お前と織姫様の仮祝言を執り行うと宣じられたんだ」
「……………何…だと…っ?!」

大きく目を見開いて、一護が立ち竦む。
主人の心の内を読みとったのか、斬月が低く唸り声を上げた。










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