献上

□しあわせに噛み付いた
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 触れてはいけない踏んではいけない見つめてはいけない噛みついてはいけない。


「南沢さん、帰り一緒していいっすか?」
「好きにしろよ」
 傷つかない距離で今日も傍に置いてもらうことを許される。それは大きな進歩であり絶対的な行き詰まりだった。戻りたくはない、けれど進めやしない。
 悟らせたくはないからいつものようにへらへらして近づけば、彼も大した警戒はせず許容範囲に入れてくれる。元からあまり近すぎる距離に踏み込まれることを嫌う性格のようだったからじわじわと間にある空間を埋めていくのは難しかった。彼は聡いのだ。彼の好まぬ下心が見え隠れしようものなら突き放されてしまうだろう。
 だからまずは害を与えない相手であると安堵にも似たものを提供することから始めた。せめて邪険に扱われないようにと。
 彼が望むのは気楽な相手だと、ずっと見ていてそれがわかった。深くは干渉しない。いちいち口うるさくない。良い子が過ぎてもうざったい悪い子が過ぎても面倒くさい。だからといってただ従順なだけでもつまらない。反応を返し適度に話が通じ共通項が何かしらある相手。
 近づいてもきっとある程度までは許されるだろうと奇妙な自信があったのは、それらと自分がこう見られているであろう部分を照らし合わせた結果があったからだ。
 媚びないけれど尻尾を振る。下心あれども性格は作ったわけではないから見透かされることはないだろう。笑って近づいて話を聞いて、真の意味を隠しながら好意を伝えて傷つけないよう傷つかないよう彼の傍に彼の望む自分として存在する。
 浜野はそれだけでも幸せだった。
 そう思い込んだ。

「南沢さん、どれにすんの?」
「やっぱバニラかな」
「んじゃ俺チョコとイチゴ」
 帰りがけに寄り道をするのは、浜野と南沢が二人きりで下校する時にはよくあることだった。
 アイスクリーム店でカラフルなそれらが並ぶショーケースを眺める横顔を気づかれないように見るのが好きだ。すとんと落ちてくる前髪を少し耳に掛ける時の仕草、商品の名前のプレートを触れないよう空気だけでなぞる指先、長い睫毛。
 外見だけではない。柔軟なようでいて頑固な面だとか繊細で傷つきやすいくせに至って普通に見せる虚勢だとかその不安定さに気づいてしまってからだった、この感情を自覚してしまったのは。
 ふいに彼がこちらを向いた。わかってんじゃんといたずらっぽく笑う南沢のその台詞の意図はバニラと相性の良い味を選んだからだろう。意外なところで子供っぽいところも見つけてしまえば可愛いと思うほかない。当然じゃんあなたの為なんだから。
 いっそのこと哀しいほどにどこをとっても惹きつけられる。
 人気のないゆるい坂道をアイスクリームを食べながらたらたらと歩く。夕焼けの明るさが残る夜が近い時間は空も光に照らされた風景も眼球を痛めつけるほどではなくなっていた。公園からは子供が消え始めて人気がなくなっていく。
 走り去る彼らが抱えているボールが夕闇に見えて、南沢は歪んで尚美しく見える笑みを浮かべて呟きを落とした。
「見ろよ。何がどうなってるか知らないで……楽しそう」
「南沢さん性格くっそ悪いですよねー」
「うるせえな」
 彼は笑った。諦めたような意地の悪いような、そんな脆さを感じさせる表情に堪らず抱きしめたくなったがそのままこの気持ちがばれてしまいそうな恐怖を覚え衝動を押し止める。だめだ、だめだ、ばれる。
 すると南沢は浜野のイチゴのアイスクリームをすいとスプーンですくって食べた。いただき、と言って甘いそれを舐める彼に浜野はなんて卑怯なんだと内心叫んだ。

 あなたがすきです、南沢さん。


 そんな日々が緩慢に続いていた頃だ。昼休みの何でもないようなタイミングで唐突に女子生徒が華やいだ声でこそこそと話し始めたものだから、浜野が倉間や速水と共に振り向くと扉の側に南沢が立っていた。
 表情は普段のようにどこか大人びていて落ち着いたものだったが不機嫌そうな目で教室を見回していた。女子生徒の何人かがどうかしたんですかと甘えた声で彼に話しかけるのを見て、浜野は思わず顔をしかめた。更に心臓が重たくなるような気分になったのは南沢がうわべだけとはいえ笑顔で彼女らに対応したことだ。
 お前らが気安くそのひとに話しかけるなよ俺の苦労も知らないくせに。そのひとはそんなに簡単なひとじゃねえんだよ。知られないようにしてきたのに知ってほしいだなんて我が儘なのはわかっているけれど、と浜野は口の奥で歯をかちりと噛む。
 その直後、南沢と視線が合った。怒りと嫉妬の中でもそんな些細なことが嬉しくていつもの笑みを浮かべていた。癖のようになっているのかも知れない。
 彼が躊躇いのない足取りでこちらへ近づいてくる。髪がさらさらと揺れる様が綺麗だなあと眺めていると、腕を掴まれた。まさかそんなことになるとは思っていなくて目を何度かしばたかせれば南沢は浜野の手を軽く引く。それが、来い、という命令と懇願を内包した行為だと気づいて立ち上がった。南沢はちょっとだとか何とか小声で呟いて、腕を掴んだまま踵を返す。
 浜野はぽかんと不思議そうな表情を浮かべる倉間と速水に謝るように片手を挙げて南沢と共に教室を出た。

 連れられて入ったのは資料室という名目の物置のような空き教室だった。余ったプリントやポスター、埃を被ったスクリーンと錆びた指示棒、機会がなければ使われないスケールの定規に美術室から撤去されたレプリカ、そういった物が乱雑に置かれてまるで幼い子供の玩具箱のようだ。南沢は浜野を先に教室へ押し込むと静かに扉を閉め鍵を掛けた。
 優等生なのに大丈夫かと口にしかけたが彼がそんなことをした理由などどうでもいいと思ったのは、南沢が壁にもたれ掛かってへたり込んでしまったからだ。浜野は慌てて、しかし少し距離を空けて隣に滑り込むようにしゃがむと彼は呪うように呟く。
「監督くそむかつく」
「そりゃまた災難っちゅーかなんちゅーか……お疲れ様です南沢さん」
 どうやら監督と一悶着あったらしい。南沢は基本的には大人に対して上手く猫を被るのに監督とはそりが合わないようで、しきりに嫌な顔をしていた。
 表情に出さない人なのになあと思いながらぽんぽんと背中を叩いてやる。このぐらいなら下心などは関係なく今この間柄としても自然だし、何より腹が立っているというよりは落ち込んでいる様子の南沢を放っておくことは出来ない。

 だが予想外だったのはそこからだった。南沢の身体が傾いたかと思うと、彼はすがるように浜野に寄りかかったのだ。
 肩に押しつけられた頭を見下ろしてわけがわからなくなってしまう。こんな近さで彼の綺麗な紫色の髪も長い睫毛も見たことがなくて、こんな熱を感じるくらいに触れたことがなくて、濡れた手が感電して爆発してしまいそうな迫撃にも近い感覚。
 そうして南沢は今まで聴いたこともないような優しい声で言ったのだ。
「お前、一緒にいてほっとするんだ」

 触れてはいけない踏んではいけない見つめてはいけない噛みついてはいけない。

 それらを守ってようやく勝ち得た信頼は自身が思うよりも積み重ねられていたことに気がついた。いつからか自分は彼の許容範囲の深いところにいたのだ。シャツの袖口を掴む手が寄り添う身体が触れる体温がそれを証明している。
 望んでいたことなのにその台詞と行動は深く突き刺さる。自分のせいだからこそ悔しいのは誰も責められないからだろう、安堵した彼の表情に胸が痛くなる。ごめんなさい俺はそんな人間じゃない思い込まないとやっていられないくらいの気持ちを抱いているんだ本当は俺すぐにでもあなたを。
 頭と胸の奥深くどこかでぶちんと何かが切れてしまった音が聴こえた。
 本当に望んでいたことに従ってしまおう。だって俺はたくさん耐えてきた触れなかった踏みつけなかった見つめなかった噛みつかなかった、傷つけないようにしてきたのにこの幸せな距離を破るようなことをしたのはそっちのほうじゃないか!
「じゃあさ南沢さん、ご褒美下さいよ」
「ご褒美? なんだよ、帰りにアイスでもおごってやろうか」
 浜野が発した言葉をいつもの軽い雰囲気の冗談ととったのだろう。南沢は前髪の一部分を耳にかけながら笑った。
 その笑顔はこのまま進んでしまえばだったらもう自分には向けられないかもしれないけれど、戻りたくはない。浜野は僅かにずらしていた距離を縮めて南沢の顔を覗き込んだ。まだその目に映る自分はへらへらと笑っている。

「させて」
 押し殺していた剥き出しの言葉を止められずとうとう吐き出された。

 すると彼の表情から笑顔が消えて混乱の色に変わり、驚愕に染まった。南沢は聡い。その意味を理解したのだろう、まるで恐ろしいものを目の前にしたかのように震え出した身体を離し後退したがもう遅い。
 浜野は南沢の肩を掴んでそのまま背中から倒した。呻き声がしたがそれを許容出来る余裕は既にない。細身の身体に跨がって馬乗りになれば彼も抵抗して手を伸ばしてくる。相手も男だ、一筋縄ではいかず殴りかかる拳がゴーグルを弾き飛ばした。ばさ、と長い髪が落ちて視界が陰る。床にゴーグルが落ちる音がした。
 腕力は浜野のほうが上回っているし重力が抵抗を妨げた。振り上げられた手首を乱暴に掴み叩きつけるようにして床に押さえつける。こうやって幸せって壊れていくのかなとぼんやり思いながら片手で右手を片膝で左腕を縫い付け、空いた片手はシャツのボタンを外していく。
「やめろ、浜野――」
 震えて掠れた彼の声が空気に溶ける。耳にこびりつく音色のようなそれはひどく甘く苦く中毒性があるものに感じられた。
「やだよ」
 怯えるその目に冗談や嘘の欠片もない信じられないほど真剣な顔をして言い放った自分がいて泣きたくなった。
 傷つけないよう傷つかないよう壊さぬよう今までやってきたのにそれを自分から台無しにするなんて滑稽なんだと自嘲したが笑えなかった。息がくるしい。


 すきなんです。それは彼の首に噛みついた暗い口内へ消えた。



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企画「横恋慕」様へ提出させていただきました。
ゴーグルが大事なものだったらどうしようと思いつつ。ありがとうございます!
 

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