短編
□メモワール
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「コースケ……」
動けなくなった彼女は信じられないという顔で俺の名を呼ぶ。
それが偽名だと知れば、彼女はどうするだろう。少し迷ったが、やめた。どうせ死ぬのだ。教えてやる事もない。
「やめて…」
「やめない」
これはあんたのお義父様に頼まれたお仕事なんだから。
「誰の、差し金?」
「……秘密」
依頼人にもプライバシーがあるからな。
声がうまく出ない。いつもならすらすら出てくるはずの、ターゲットを地獄に突き落とす言葉が喉の奥につっかえる。
可笑しいな、いつもならこんなことありえないのに。
「貴方も、うちの財産が欲しいの…?」
「そんなのは知らないさ。俺は、あんたを殺して金をもらうだけだ」
「…そう。何も、教えてはくれないのね…」
彼女は苦しそうに息を繰り返していたが、泣き言は言わなかった。血の溢れる右足を庇う様子もない。ただ、怒りに満ちた真っ直ぐな眼が俺を見ていた。
「私は。貴方には、殺されない」
「…この状況分かってる?」
「……」
それ以上は何も言わなかった。
神にでも祈る気だろうか。胸の前で指を組み、黙って俯いたまま動かない。
好都合だ。このまま頭をぶち抜かせていただこう。そしたらこれで、仕事は終わりだ。
引き金を引こうとした瞬間、女の口から赤いものが落ちた。
「…お前…!」
思わず声を上げてしまった。
それは、今の今まで彼女の口の中にあった、舌だったから。
彼女は力無く崩れ落ちた。
口元が溢れる血で真っ赤に染まっている。薄く開いた口の中には舌がない。そう思うと背筋に嫌な汗が流れた。
いけないと分かっていながら、俺は彼女を抱き上げた。
死体に触れてはならない。
この世界に入った時に叩き込まれた言葉が頭を過ぎる。
死体は怖い。人間とは恐ろしいもので、死してなお自らの命を奪った者の証拠を捕まんとする。触れば、どこかにその痕跡が残ってしまう。ましてや今は、それが死体なのか否かがはっきりしていない。最後の力を振り絞って余計な事をされては適わない。
だけどこうせずにはいられなかった。
彼女は、俺のせいで舌を噛み切ったのだから。
「 」
彼女の唇が微かに動いたが、その言葉は聞き取れなかった。
だってもう、彼女に舌はないのだから。
悲しげな顔を、俺は最期まで見ていた。
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