Novel

□自我と崩壊
1ページ/1ページ

もう辞めて仕舞おうと思った。
生きる事も、殺す事も、もう嫌だと泣き叫ぶ事もきっととうの昔に疲れてしまっていたのだ。そんな事ばかり繰り返すなら、生きる事など諦めて、何もかも辞めて方が良いと、自分の中で誰かが繰り返した。つまりはそういう事だ、と。
手首に当てがったナイフが、鈍く銀色に光る。大丈夫だと言い聞かせる。今度こそきっと開放される事が、死ぬ事が叶う。死んでしまえば何かを気に病む必要も無いし疲れる事も泣く事も、もう無くなる。

「いい加減にしろよ」

そうして静かに目蓋を下ろして、皮膚を切り裂く音が聞こえる前に、やっぱり彼の存在がが何度だって邪魔をする。何時もの事じゃないか、無視してそのまま死んで仕舞えばいいのに、ーーそれでも、ただ一人の存在に軽く声を掛けられただけで、簡単にナイフを持つ手は震えて動かなくなる。
何処かからやって来たような仕草で傍に立った彼は、此方とは違って酷く冷めたような目をしていて、それは見下すような色を含んでいるようにも見えて少しだけ怯んで仕舞う。いい加減にしろ。冷たい空間で、その声が矢鱈に大きく響いたような、そんな気がした。

「俺はまだ、生きてるだろう」

まだ死にそうにも無い綺麗な琥珀色の瞳で、静かに、ただひたすらに無表情でゆっくりと紡ぎ出される言葉の意味は、きっととうの昔に分かっていた筈なのに、矢っ張り僕は何度でも、それを聞きたくないと、自分の耳を、目を、その全てを塞ごうとする。「それはつまり、お前が「死にたく無い」と願っている証拠だ」と。塞ごうとしたはずの手は、ただ切り裂こうとしたはずのナイフを取り落としただけに終わる。
からん、と軽い音を立てて転がったそれを、音も立てずに彼が拾い上げる。「無駄だ」お前も分かってるんだろう。その声を聞きたくはなかった。否定したいと思っていたのに。それでも、きっと彼はどうしたって話すのを止めてはくれない。

「お前があの時、「生きたい」と、」
「そう強く願ったから俺が生まれたんだ」
「お前自らが、生存する事を、俺を選んだんだよ」

その結果が、まだ残っている。今もまだずっと生きたいと、僕が願っているだけなのだ。だから彼は此処にいるし、僕だってずっと死ぬ事が出来て居ない。
……それが、理解出来ていたとしても、「だからなんだよ、」

「……良い加減、生きていく事を受け入れろ」

巫山戯るな、と叫びたかった。
如何して君はいつも、僕ばかりを生かそうとするんだ、と。そんな事しか出来ないなら、いっそ戦場で死んで仕舞えば良かったのに。

「僕だってもう、うんざりなんだよ」

涙は出ない。ただ叫ぶだけの言葉でも、彼は矢っ張り黙って聞いてくれるのだと。それが分かっても、いくら泣きたくなっても、どうしても目から雫は流れ出ない。それはきっと彼が本当に泣く事が出来ないからだとぼんやりと確信した。

「きみの言うとおり、僕は生きたいと願ってるさ」
「でもそう願う度にきみが現れて、親しくしてくれた人達も、僕も、何もかも真っ赤になって、」

どうせあの街じゃ何度死んでも生き返る。その事実は、慰めと言う寄りは僕にとってはどんな拷問よりも酷い。僕が生きたいと思う度に毎回、何度も何度でも、あの優しい人達を、親しい彼らを惨い死体の山に自分の手で変えて仕舞う光景を見ていなくてはならない。
自分の、僕ひとりだけのエゴがたくさんの人を殺してしまうと、詰まり君はそう言っているんだ。

「それなら、いっそ、……」

漸く零れ出した涙に身を任せるようにしてまた叫んだ。蹲った身体も何もかも、やっぱり彼は眺めているだけだ。彼が考えている事を理解出来ないのは、やっぱり僕もただの人間なのだと、今更思い出していた。



「ーーああ、わかった」

被害者となって誰かに殺され死を迎えるか、加害者となって誰かを殺して生きるか。この世界の理は、結局はその二者一択だけで成り立っているのだと。
それなのに、それなのにお前はいつ迄もぼろぼろと情けなく涙を零して、ひたすらにそれを選ぶ事を拒否して。生きる事も嫌。死ぬのも嫌。そう泣き喚くばかりで、嫌な役目はいつだって俺に、自分の中にいるもう一人の自分へと押し付ける。……そういう事か。
「とんだエゴイストだな」あいつがさっきまで手にしていた筈のナイフを、今度は自分の首筋に押し付ける。

「今、ようやくわかったよ」

そうして飛び散った血飛沫の中。暗転する視界の中で、あいつがまた泣き喚く声が聞こえたような気もした。

「あ、ああ、」
(情けない、こんな声しか出せないなんて、)
(ああ、僕もきみも何もかも、真っ赤に、なって、)



ぽたり。静かに雫が落ちる。それが何なのかを、俺は理解する術を持たない。

「ああ、矢っ張りお前は、まだ、」

本当は何もかも分かっていた。あいつが何を考えていたのか、如何してあんなに泣き喚くのか。
ただの利己主義者の癖にとんだお人好しだ。それで死にたくも生きたくも無いだなんて、一体どの口が言ったものなのだろうか。本当に、馬鹿なやつだと思った。



「僕のエゴが、(     )を殺すのなら」

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ