日出処の天子
□上宮王子の妃
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推古三年(595年)初夏――
厩戸王子が大兄となり摂政政治をはじめてから、二年が過ぎた。
王子の大兄就任以来、朝廷の力は倍増し、大王を弑するほどの権勢を誇っていた大臣蘇我馬子も朝廷を無視して独断で政を行うことはできなくなっていた。
当然、馬子の機嫌はよろしくない。
今日もいつも通り出仕したが、館に戻ってからも不機嫌な顔を隠そうとしなかった。
「早く足湯をもってまいれ!ぐずぐずするな!」
馬子の罵声が飛ぶ中、女たちが館を忙しく動き回り、湯や茶漬けを運んできた。
ここの所、日常茶飯事となった風景。馬子の館では珍しくない。
長子の毛人は、その光景を複雑な思いで眺めていた。
朝廷での権力争い、毎日のように不機嫌な父。
こんな光景をはるか昔にも見ていた気がするからだ。
そう、はるか昔――。まだあのお方に出会う前。あの頃はまだ刀自古もこの家にいて、元気すぎるほどに跳ね回っていた。物部との争いに加え、「あなたは仏法を理解していない」とあの方に辛辣に批判され、父は今と同じく喚いていた。
あのお方。あの美しき大王家の御子(みこ)。厩戸王子に。
二年前、斑鳩の宮で会って以来、毛人は厩戸王子と話をしていなかった。
もちろん父と共に朝廷に出仕したおり、大王と並んだ姿を見てはいる。
しかし、それだけだった。
もう昔のようには戻れない。
自分からつき放したしたくせに、そう思うたびにやはり寂しいと思ってしまう。
我ながら勝手だとは思うが、王子とともにあった十年を忘れ去ることはできなかった。
今でも王子の名を聞くたびに、あの方のお姿が目に浮かぶものを。
「毛人!毛人はどうした!」
父の怒鳴り声が、意識を十年前に飛ばしていた毛人の回想を破った。
毛人は現実に戻り、未練がましい己の心に苦笑しつつ、父のもとへ向かった。