中編・短編


□奏でる旋律は祈りの調べ
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煙草の匂いの染みついたバーは、どう考えても中学生の居るべき場所では無かった。溜息を吐きたい気持ちを抑えつつ弾くのは、雰囲気に合ったジャズ。誰も聞いていないから気楽と言えば気楽だけど、そもそも人前で弾くような腕では無いし、気分転換で演奏するくらいしかしてこなかったから溜息を禁じえない。色々な事に目を瞑ってこんなことになった原因を考える。最早無事に帰れればいいなあとしか思えなかった。

『ぱぱ、どこぉ』

泣いている少女に出逢ったのは、此処からほど近い楽器店の中だった。有希ちゃんに呼ばれて遊びに行く工藤邸にて、ピアノを弾かせて貰うことも増えた今では、通り掛かりに楽譜を眺めることも多くなる。小さな女の子を落ち着かせる口実で、近くのピアノを鳴らしながら話しかけた。

『貴女はどんな曲が好き?』
『……パパがいつもふいてるきょくがすき』

オリジナルの曲なら分からないけれど、取りあえず知りうる限りの管楽器練習曲を弾いていたらその内の一つがヒットした。手を叩いて喜んでくれる彼女に、調子に乗って色々な曲を披露した私も多分考えなしだった。でも、この演奏で広いフロアの何処かに居る彼女の父親を探すのは丁度良いと思ったし、真昼間から拉致され土下座の真似事までされ、ピアノを弾かされることになるとは誰も考えないと思う。急に本日の出演者が熱を出し、困っているのだと、演奏者がいなければ殺されるのだという勢いで頭を下げた恐らく未成年の少年に、きな臭いモノを感じつつ逃げ切れなかった私も私。小柄な大人なんです、という顔をしたってどうしようもないけれど、せめて要らぬ火の粉は被りたくないので背筋は伸ばした。

『おねえちゃん、ありがとう』

そう言って笑った、彼女の言葉だけで今日を平和に終われたら良かったのに。着替えさせられ薄く化粧もされて、途中からは綺麗なお姉さんの伴奏に徹して。そのまま流れていた空気は、唐突に壊された。

「なっ、何だお前は!」

客の一人が動揺のままに叫び立ち上がったので、演奏は途切れる。歌姫に集中していた辺りの客は呆気に取られて、私も視線を奪われる形となった。しかし舞台の上に居るからか、人の動きが良く分かる。怪しげな動きをする人達は、次々と俊敏な男たちに取り押さえられていった。

「公安だ」

眼を白黒させる私に、此処へ来る原因となった少年が舞台袖から出て来て話しかけてくる。

「此処の店長、なんかカルト集団の幹部と友達らしくって、勧誘場所提供してたんだよな」
「彼が公安警察に情報をリークして、今日捕まえるって言うから手伝いに歌ってたんだけど、まさか伴奏者が変わってるとは思わなかったわ」
「いやー怖かったみたいで直前に逃げられちゃってさ」
「…………」

この場合、どういうリアクションをするのが正解なんだろう。無言の私に何かを悟ったのか、お姉さんが視線を合わせてくる。

「って、ちょっとまさかあなた、何にも知らせずに弾かせてたの!?こんな若い子に!?」
「ははっ」

ははじゃない。

「笑い事じゃないわ!ごめんねこの子が。貴女いくつ?」
「……えっと、十二です」
「!?」

これには流石に少年も驚いたのか、えっと漏らしたと思うとバツの悪い顔をした。まあ作戦開始まで時間が無かっただろうし、私の中身は十二歳では無いのであんまり気にしないで欲しいのだけど。

「ごめんお兄。巻き込んだ一般人が中学生だった。安全に送って欲しい」

何処かに電話をかけて直ぐ、少年は荷物を入れた更衣室まで連れて来てくれた。これ幸いと着替えて、何だかややこしいことになってるなあと思いつつ、無事に帰れそうではあるので不安になりそうな気持ちを押し込める。扉の前で待機していた少年に裏口から外へと案内されて、目立たぬように止めてあった車の前までやって来た。後部座席のドアを開けられ、戸惑いながら乗り込むと、運転席の男の人が苦笑する。

「助かったけど、言ってくれればこっちで手配するからあんま突っ走んなよ」
「はーいお兄、次から気をつけまーす」
「次が無いのが一番なんだが……さてお嬢ちゃん、お家はどこだい?」
「えっ、あ、……東都大学の近くまでお願いします」
「はいよ」

私の物言いに疑問は無かったのか、普通に車が発進するので慌ててシートベルトを装着した。手を振る少年は彼をお兄と呼んでいたけれど、血縁関係があるかは不明だ。多分公安の人だろうし、固くなる必要はないんだろうけど。

「中学生だって?」
「はい、一年です」
「へー、最近の子は確りしてるね。映像で見てたけど、ジャズも上手かったし。俺もね、ギターやってるんだ」
「そうなんですか」

ギターならちょっと触った事がある。コードを押さえるのに手が攣りそうになったこととか、初心者あるあるしか話せないけれども。

「いきなり引っ張って来られたみたいで、大丈夫だった?落ち着いてるけど、怖くなかった?」

何でもないように聞かれつつ、バックミラー越しに合う眼は少しの違和感をも漏らさないよう私を観察していた。勿論それは中学生の女の子に対する当たり前の配慮だろうけど、何故だか私は彼から目が逸らせなかった。

「……お嬢ちゃん?」
「あ、すみません。なかなか無い経験をしたせいか、ぼーっとしてしまって……」
「そうだよなあ、ドラマの中かって感じだよなあ」

人当たり良く、笑いかけてくるこの人を、私は知っていた気がする。それは私であって私でない誰かの記憶で、白い雪の降りつもる何処かの屋上で、静かにお別れをした。

「東都大まで来たけど、詳しい住所分かる?」
「いえ、寄るところがあるので、もうこの辺りで大丈夫です」
「そっか。気をつけて帰ってね」

縁石に沿って止められて、シートベルトを外して、もう車を降りるだけなのに、ドアを開ける手が動かなかった。何か言っておきたいような、そんな気分になって、きっと二度と会うことも無い人だろうし、と思って素直に口を開いてみる。

「──あの、」
「ん?」

優しそうな瞳のこの人を、失って、泣きそうな顔を堪える誰かを、多分知っている。

「……世迷言だと思って、聞いて欲しいのですけれど……、いつか貴方が、絶体絶命のピンチになったとして、追い詰められたその先で、足音を聞いたとします」
「、ふむ?」
「敵かもしれないって、思うと思います。でも、もう一回立ち止まって、考えて欲しいんです。その足音に聞き覚えが無いか……貴方の大事な人が、貴方を心配して駆け付けた音じゃないか……」

カラカラの喉が、これ以上の言葉を閉じさせた。私じゃない私がしたかった忠告が活きるのかは分からない。この車を降りたら真っ先に幸成さんの所へ行って、温かいコーヒーを貰いたい。

「送って下さって、ありがとうございました」

ぺこりと頭を下げて、今度こそ私はドアを開けた。外の空気を吸って、何だか安心する。日常に戻れた気でいた私は、運転席で掛けられた電話の内容を知らない。



「あ、もしもし?今大丈夫か?──手短に?あー、えっとな、なんか子猫みたいな可愛い女の子に、多分心配してもらった!──あ?ロリコン?失礼な奴だな!俺の頭は何ともねえよ!」



***

登場人物の誰ひとり名前が出ないっていう、ふわふわ小説でした。胡蝶の夢っぽいのでIFのIF。

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