中編・短編


□だいすきなお兄ちゃんに妹なんていなかった
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だいすきなお兄ちゃんに妹なんていなかった


 私の名前は萩原詩荻。最初と最後が似通ってめちゃんこややこしい漢字をしているだけあってか、自分でもどうかと思うほど捻くれた性格をしている。素直になるのは自分を曝け出すようで不得意だし、必要最低限以外の好意や感謝なんてどこまでいっても滑らかに外へ羽ばたいてはくれない。あまりに天邪鬼な私の毒舌を気にもせず溺愛してくれた兄でも、学校や社会でこの生き難い性格のまま突き進むことには危機感を覚えたのか、児童劇団への参加をそれとなく進められた。
 本音や建て前の遣い方、人付き合いの為の演技力や礼儀を養う日々は、もともとの性格矯正には至らなかったものの自分も相手も傷つけないオブラートを上手く纏えるくらいには役立ってくれた。結果的に役者となって生活している今では人生の指針を示してくれた兄にとても感謝しているが、オフモードの私は相も変わらず素直じゃなくて、好きの言葉もありがとうもまともに伝えてはこなかった。台本に書いてある台詞なら綺麗に感情をこめられるのに、兄に想う感情が深すぎてきちんと言葉に出来ないんだなあと自分の不器用さが嫌になる。
 でもその分、行動で示せるように実家に帰れば隣を陣取ったし、撫でられる手を嫌がったこともなかったし、両親にも兄の友達にも私のブラコンぶりが伝わる程度にはきちんと愛情のシグナルを発していたはずだ。今はもう希望的観測で、それが正しく伝わっていたのか聞くことはできないのだけれど。

「……俺の、妹?」

 目覚めてからの「誰?」もきつかったが、心底不思議そうに、怪訝そうにされてしにたくなった。あまりに酷い顔をしていたのか陣平くんが病室から連れ出してくれなければ、私までショックで記憶喪失になりかねなかったかもしれない。家族の中で唯一私の存在だけを忘れた兄に、罰が当たったのかとぐるぐる思考は回っていく。兄と同じだけの優しさを返せなかったから、薄情な妹は記憶の波から遭難した。

「まだ混乱してるだけだろ」
「そうだ、明日にはケロッとして詩荻に泣きつくさ」

 肩と頭を撫でてくれる兄の友人たちに励まされて、仕事の合間を縫って病院に通った。けれど次の日もその次の日も、「誰?」から始まる問答は変わらなかった。兄は、私の存在を忘れただけでなく私のことを記憶できないようだった。忘れられても大好きな兄に変わりはないのだから、また一から関係を作ろうと、今度はうんと私が兄に好きだと伝えようと思った心は三ヵ月で折れてしまった。名前を覚えてもらっても、唐突にできた妹を名乗る女への不信が消えないうちに明日が来てしまう。耐えられなかった。兄を好きだからこそ、耐えられなかった。

「萩原は馬鹿だから、思い出したときに死ぬほど後悔するさ」
「……私もう、お兄ちゃんに会いに行けない……」
「分かってる。お前には俺が会いに行くし、萩原にそれは伝えねえ」

 もしかしたら私はこの時すでにこの現象の答えを知っていたのかもしれない。彼に縋った腕を、身体を、置いて行かれる予感は、きっと手を伸ばした初めからしていた。

「……は、? 俺の、恋人……?」
「松田!? ッ、お前もかよ!!?」
「お前もって……何の話だ」
「良いよ伊達くん。もういいの」
「よくねえだろ!? 意味が分からねえ!!」

 恋人として四年一緒にいた思い出も、親友の妹としてずっと可愛がってくれていた過去も、彼の中からは消え去っていた。これはおそらく罰だった。原作という筋書きに反して、兄と恋人を生かしたから、異端者の記憶は消されたのだ。

「お前萩原にも全然会ってないだろ!? このまま消えたら許さねえからな!?」
「それなりにお仕事あるのに消えないよ。伊達くん、彼女と仲良くね」
「〜〜メール!! ちゃんと返せよ!! 絶対だからな!!」

 念押しされる言葉に手を振って、私はきちんと約束を守るつもりでいた。伊達くんが死んでしまう運命の日まで、伊達くんが私を忘れてしまうその日まで、きちんと待ってるつもりだった。それでも辛い時に慰めてくれる人肌がないことはストレスで、仕事終わりにフラフラと街を歩くのが癖になった。繁華街なんていけないけど、金髪の鬘をかぶって、黒ぶちの眼鏡をかけて、もう取りに来る人のいない大きいパーカーを羽織って、雑居ビルの屋上で都会の消えそうな星を見ていた。焦ったような足音は、涙の流し過ぎで疲れてうとうとしていた意識を引き上げた。

「なっ、人!?」

 記憶にあるその人に、泣きそうな気持を堪えて足払いをかけた。油断していたのか倒れた彼に眼鏡をかけさせ鬘をかぶせて、上着は脱がせて代わりにパーカーを無理矢理着せる。はぎ取った上着は自分の腰に巻いて、乱した衣服を少しでも隠してくれることを期待したけれど、きっと騙すのに羞恥心なんてものは捨てなくてはいけないだろう。上に乗ったままの私に目を白黒させていた彼は、近付いてくる足音に反応して何かを喋ろうとしたけど唇で塞いだ。私の涙を誤魔化すには、もうこれくらいしか思いつかない。

「ふっ、ン、ぅあ、ああッ」

 盛っている猫のように嬌声を立てて、騎乗位で乱れる女をトレースした。音はどうしても用意がないのでスローセックスを装ったし、少なくとも一回目ではなさそうな雰囲気をこれでもかと出したので追手は彼を獲物とイコールだとは認識しなかったみたいだ。念のため足音が遠ざかっても律動をやめなかったし、きちんと達して終わらせた感を装ってからしがみついた腕は離した。

「え、……と、きみ、」
「……それ、あげる」
「…………助かる、けど、その、何で」
「りゆう……?」

 演技の名残で体は火照るけれど、風に晒された頬は冷たかった。彼を助けたことは咄嗟の判断だが、冷静に考えれば実験だった。私は彼との面識がない。彼は爆死ではないから記憶喪失になるような衝撃も受けない。そんな人が、私を覚えてくれるかどうか、試したかったのかもしれない。きっと二度と会わない私には、その先に何も続かない検証だけど。

「ひとを助けるのに、訳なんていらない、なんて、言えたら、かっこうよかったね……」
「……」
「生きてるだけで、よくっても、忘れられたら、かなしいから……」
「、どういう」
「だいすきな人がいるなら、だいすきって、伝えなきゃだめだよ」

 洪水になっている涙を拭って、衣服を整えてから歩き出す。彼のお陰で、自暴自棄になり切らずに済んだ。ちゃんと、お兄ちゃんに恩返しをするんだ。覚えてなくても、忘れ去られても、お兄ちゃんの大事な友達を、大切な人を、大好きな人を、奪わせない。

「おにいちゃん…………」

 もう二度と面と向かっては呼べない言葉を紡ぎながら、この世界で生きていくしかない。



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