蟲師捏造話 1

□雪景色(P1)
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雪 景 色

 浜を見渡せる小高い山裾の我が家を目指して、化野は、浅い積雪の掻き分けられた小道を登っていた。
 下の漁師町に住む患者らの所へ往診に行って来たのだ。このところ、性質の悪い風邪が流行っていて危うんでいたのだったが、その流行りも漸く下火になり、皆、回復してきたようだった。空はよく晴れていた。まだ、日もそう傾かぬうちに最後の往診を終えられて、化野はちょっと脱力していた。このところ、夜中にも何度も呼ばれたりして、いつも気が張っているような状態だった。昨夜は、夜中に起こされることはなかったものの、気になって、朝からあちこちの患者を見舞って来たのだ。皆、元気に回復に向かっていた。今夜も、夜中に起こされずにゆっくりと休めそうだ。今日は休診日なので、他の患者らが来ることもない。薬も充分にあるし、とりあえず、今日しなければならない仕事はなさそうだった。
 ぽっかりと穴のあいたような気分だった。
 皆回復してきて安心なのだから、それはいい。久しぶりに暇が出来たのはよいことだった。ただ、空はこんなに晴れているのに、何をしたいということがない。ゆっくり休む、と言っても、昨夜は充分な睡眠時間が取れたので、昼間から眠れるような気分でもないし。
 こんな時は、居ながらにして、もの珍しく不思議なものや遠い異郷の話が聞ける行商人や蟲師の誰かが寄ってくれたら、手慰みになって楽しいのだが。
 いや、そんな連中と渡り合えるような元気は、今の化野にはなかった。もっとも、ギンコに言わせれば、化野は、いつも一方的に化かされているようなものだそうだが。
『お前も化かしているのか、俺を?』
と訊いたら、
『俺のは、いつだって、出所は確かだぜ』
とギンコは答えた。
 確かに、そうだった。ギンコは、蟲師なのだ。蟲師として自分が関わった事件の品か、珍品屋から買った物でも、必ず自分で出所を確かめてから持ってくる。蟲師としての腕は確かだ。医家の自分の手におえない『蟲患い』の患者の治療を頼んだことも何度かあった。
(ギンコが来てくれたらな)
 と、化野は思った。
 こんな時はーーー
 が、こんなに雪の残るこの季節に、ギンコがこの家を訪れることはないだろう。
 漁師町なせいか、ギンコも、美味い魚の獲れる夏場に来ることが多い。春や秋に来ることもあったが、何故か、冬に訪れたことはなかった。渡り鳥のように、季節ごとに寄る家が、ギンコにはあるのではないかと思ったことがある。勿論、ギンコの蟲を寄せるという体質のことは聞いている。生まれ故郷というものを知らないことも。むしろ、だからこそ、とも思うのだ。冬以外には時々この家を訪れるように、冬場の仮の故郷と定めて訪れている家が、他所にあるのではないか、と。
「今夜は、酒でも飲むか」
 化野は、自分に呟いた。今日は、どうにも気が滅入る。何故かーーー こんな時は飲むに限る。自慢じゃないが、酔うと陽気になる性質だった。ギンコには、『お前のは、からみ酒だ』と言われたことがあるが、他の誰にもそんなことを言われたことはない。
 家に辿り着くと、母屋より先に蔵へ向かった。大事に仕舞っておいたとっておきの酒を一本抱えて庭を抜けて母屋へ戻ろうとすると。
 庭先にギンコがいた。
 仰向けに、空を見上げて、長い外套の合わせをはだけ、軽く片足を曲げた姿で、雪の上に身を横たえている。
 空はきれいに晴れているのに、ちらはらと雪が舞い始めていた。その雪を片手をかざして受け払いながら、ギンコの碧色の右目が、よお、と言うように化野を流し見た。化野は、立ちつくした。
「ギンコか?」
と、思わず訊いてしまった。
 口の端をわずかに上げて、ギンコがふーーっと蟲煙草の煙を吐く。何だか、そわそわした。
「い、いや、珍しいな。お前が、冬にここに来るなんて」
「そうだな」
 ギンコは、静かにこたえた。やはり、意識して、冬にはここへ来なかったのかも知れなかった。
 が、今はここにいる。
 化野は、ギンコの傍らに駆け寄った。ギンコの右側の、頭の横に立つ。ギンコは、傍らのトランクをチラと見やって、
「今時分は、お前が欲しがるような代物は手に入りづらくてな」
「冬は、蟲も少ないのか?」
「・・・豊かな土地には多いし、やせた土地には少ない。冬は・・・そうだな。やせた土地に近くなる土地もあるな」
「ここもそうか?」
 化野はたずねた。ギンコは、ふーーっと、また蟲煙草の煙を吐いて、
「ここは、めっぽう豊かな土地だ」
 ギンコは、空を見上げた。化野の目には見えない蟲が、ギンコの目には沢山見えているのだろうか?
 雪の上に横たわったまま、ギンコは起き上がろうとはしない。そう言えば、何故、こんなところに、横たわっていたのだろう? 雪の上に横たわるギンコは、何と言うか、満ち足りているように見えた。自足している、とでも言うのだろうかーーー なんだか淋しいような気分になって、化野はたずねた。
「・・・雪の上は、気持ちいいか?」
「ああ。気持ちいい」
と、空を見上げたまま、ギンコはこたえた。
「寒くないのか?」
「ああ。寒いな」
 化野は、酒びんを下ろすと、自分も、ギンコの隣に仰向けに寝てみた。ギンコの瞳が空から化野に移って、面白そうに化野の動きを追う。首だけ横を向けてギンコを見ると、間近に、日差しを受けて透きとおるような碧色の瞳があった。
「酔狂だな、化野先生」
 雪の上は、やはり背中が冷たかった。周りの空気もひんやりとしている。手を伸ばして、ギンコの右手に触れてみた。手袋の中の手はどうだか分からないが、セーターの袖と手袋の間の肌は、冷たかった。
 ころん、と寝たままころがって、化野は、ギンコの上に乗ってやった。顔を伏せた右側の耳元に囁く。
「どうだ、暖かかろう?」
 こんなバカな悪戯をしても、ギンコの鼓動は、ゆっくりと穏かなままだった。彼の鼓動は、こんなに高鳴っているのに。なんだか、まずいような気がして、そっと傍らを盗み見ると、ギンコは、気持ちよさそうに目を閉じていた。
「ああ。暖かいな」
 さして、身動ぎもせずに、化野の体を乗せている。
 重ねた胸から胸へ伝わる、穏かな鼓動が心地よかった。緊張していた体から、力が抜けていく。
 ああ、心が、酷く疲れていたのだ、と気づいた。ギンコの鼓動が、今、それを癒してくれた。そのまま、ギンコの胸に体を預けて鼓動の音を聞いていた。
 どのくらい、そうしていたのかーーー
「おい」
 耳元で、ギンコの声がした。
「こんな所で寝ていたら、死ぬぞ」
「・・・おまえに言われたくないな」
 が、確かにそうだった。しぶしぶ、化野は起き上がった。続いて、ギンコも立ち上がる。体温で溶けた雪のせいで、ギンコの外套の背中が少し濡れている。起き上がりたいのを、待っていてくれたのだろうか? ギンコが、いつものトランクを、背負い紐を持って持ち上げる。化野も、傍らに置いた酒びんを持った。それ程、長い時間、ああしていた訳ではなかったようだ。冷たかったギンコの手首を思い出した。
「すまんな。とにかく、中に入ろう。風呂も焚いて、温まろうぜ」
 先に立って、さくさく歩き出した。
「ああ。よろしく頼む」
 ギンコが、後に続く。彼の後ろを歩きながら、ギンコは、彼の手にしている酒びんをつついた。
「こいつも振舞ってくれるのか?」
「ああ。上モノだぞ、こいつは」
「そりゃ、楽しみだ」
「ところで、何であんな所で寝ていたんだ?」
と訊くと、
「着いたら、留守だったんで、ちょっと休んでた」
「それだけか!?」
 思わず、振り返ってそう訊いてしまって、不思議そうに見つめ返された。
「あ?」
「いや・・・」
 だって・・・とても、満ち足りているように見えたのだ。他の誰をも必要としないくらいに。美しい、とすら思った、聖なる何かのような侵し難い美しさ。何だか淋しくなるくらいに。
 にっ、と笑ってギンコが言った。
「けっこう、気持ちよかった」
 重かったけどな。
と、言い加える。
「−−−っ!」
 耳まで熱くなった彼の顔を見て、ギンコが笑う。何か言い返してやろうと思って、思い返すと、重ねた胸から胸へ伝わってきたギンコの穏かな鼓動が思い浮かんだ。化野も、なんだか満ち足りた気分になった。
 彼の傍らに肩を並べて、ギンコが、ぽんぽんと彼の肩を叩いた。
「元気、戻ったみてえだな」
「ああ。おかげさんでな」
 にこ、と笑って化野も返す。玄関の鍵をあけてガタピシと引き戸を開けると、化野はギンコを招き入れたのだった。 END

作品後記
 単行本第三巻表紙のギンコ氏を見ながら描いた話です。「匂いたつような、ぞくりとするような、美しい」風情ですよね、あの表紙のギンコ氏って。ごくり・・・
 疲れている時に描いた話。ギンコのような男に癒されたい・・・


 

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