蟲師捏造話 1

□弥勒蛍(みろくぼたる)(P11)
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弥勒蛍(みろくぼたる)

 初夏とは言え、よく晴れた日差しの下でも、まだ肌寒さを感じるような朝だった。
 小さな漁師町で町医家をしている化野(あだしの)の診療室の前には、持病の神経痛やら何やらの薬を貰いにやって来た、元気な老人たちが、朝早くからたむろしていた。重篤な病を患っている者は、今はなく、化野は、馴染みの患者たちを相手に、のんびりとした診療を始めようとしていた。
 そこへ。
 がらららがたがたッ、と荷車で突っ走るような派手な音が聞こえてきて、化野は、窓の外を見やった。次第に近所づいて来るその音のする方向で、土煙が上がっているのが、かすかに見える。
 のんびりとした、のどかな時間は、どうやら終わりのようだった。
 着物の袖にたすきをかけながら、化野は、その患者を迎える為に外へ出た。彼の診療所には、急の病や大怪我をして運び込まれてくる重篤な患者を寝かせてやる為の寝台が、いつも準備されていた。
 外で診療を待っていた老人たちとともに、皆で山道の方を眺めやる。
 山道から続く、見晴らしのいい小道を、ころげるような勢いで走ってくるのは、確か、山裾の斜面に畑をひらいている太市という男だ。後ろの荷車には、そんな引き方でも落ちないようにして、布団にくるみこまれた女が乗せられている。
「化野先生ッ!」
 たちまち、化野家の庭に飛び込んで来た男は、その勢いのまま、診療室の入り口に立つ化野の方に突進してきた。わっ、と左右に逃げ散った老人たちが、まるで、その荷台になぎ払われたかと見まがうような動きで、ぐるんと化野の前に荷台を向ける。ピタリとその車が動きを止めるのを待って、化野は、荷台にくるみこまれていた
女の上に屈みこんだ。荷台の女が寒くないようにと、患者の頭をくるんでいた布を解く。力なく目を閉じている姿は、まだ娘のように見えるが、この荷台を引いて来た男の女房だ。
「キエさん、どうした」
 化野は、荷台の女に声をかけた。少し大きめな声で、ゆったりとした、どこか安堵感をおぼえさせるような口調で問いかける。
「キエさん、わかるか。医家の化野だ。どこか痛むところや、苦しいところはないか?」
 そう尋ねながら、化野は、女の首の血脈に触れて、心の臓の動きやその強さを確かめていた。
 血脈には、異常はないようだ。
 が、キエは目を開かなかった。
「キエさん! キエさん?」
 バンバン!と肩を叩いて、重ねて名を呼んでみたが、やはり、キエは目を開かなかった。返事もない。顔色は、悪くはなかった。呼吸も、まるで、ただ眠っているだけ、とでも言うかのように静かで、規則的な呼吸をしていた。あんな運ばれ方をしてきたというのに、眉を寄せることすらなく、穏かな表情を浮かべている。
 そうやって、ひとつひとつ患者の容態を確かめながら、化野は、女を荷台にくくりつけている幅広の帯紐を解きにかかっていた。荷台の引き手を跨いで、ドカドカと傍にやって来た夫の太市も、ただちに、それにならって、帯紐を解き始めた。
「先生、キエはッーーー!」
 まるで、しゃくりを上げているような息の荒さに、それきり言葉を途切れさせて、太市は、すがるような目を化野に向ける。化野は、背後の診療室を軽く振り返って、目線で、その奥に用意された寝台を指し示しながら、
「太市。どうしたんだ、お前さんの嫁さんは?」
 男は、必死に激しい息を抑えて、ほとばしるよう口調で、
「は、畑から戻ってみたらーーー台所で倒れていてーーー呼んでも、何しても、目を覚まさんのです!」
「目を覚まさないーーー 」
 直ちに、命に関わるような兆候はないかを、もう一度、確かめたが、危うい兆候は認められなかった。台所に倒れていた、と言うが、幸い、頭を強打したような形跡はなかった。ゆるりと、くず折れるように倒れたのに違いなかった。顔色も決して悪くはない。吹きっさらしの風にさらされていた頬は、冷えて赤く染まってはいたが、布団に包まれていた体は温かく、急の病で倒れた、というよりも、本当に、ただ、ぐっすりと眠っているだけであるかのようだった。ほんのりと、微笑んでいるようにすら見えた。
 が、目覚めない。
 こんな症状には、覚えがあった。
「太市。ちょっと、そこに立ってみてくれ」
 荷車の反対側に女の夫を立たせて日陰をつくると、化野は、さらに、手をかざして、女の額の上に影を落とした。
 すると、女の眉間に、弥勒黒子(みろくぼくろ)のように、小さな、淡い光が浮かんで見えた。初夏の強い日差しの下では感じ取れなかった、ほんのりと、薄桃色を帯びた小さな光の粒が、まるで、色の薄い、大きな黒子のように、女の眉間に浮かび上がって、ほのかな光を放っている。
 やはり、そうだった。
 
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