蟲師捏造話 4

□白い月を見ていた(P2)
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白い月を見ていた

 夕刻。
 今や恋仲となった化野の家を訪れたギンコは、いつものように、中庭を覗いて主の在宅を確かめた。
 化野は、居た。
 縁側に腰掛け、沓脱石(くつぬぎいし)に草履を履いたままの足を下ろして、ぼんやりと宙を見上げていた。
 午後の往診から帰ってそのまま…なのだろうか。いや、片眼鏡をしていない。おっとりとしているようでいて、化野は、こんな、一見呑気そうな姿の時にも、その目は、注意深く庭の薬草類の草木の生育具合や、病害虫にやられている株はないか等を確かめていたりするのだが―――
 その目の向く先を、ギンコも辿ってみると、まだ水色に明るい空に、うっすらと浮かぶ半欠けの白い月の姿が見えた。
 大きな庭石の横に歩み出て、
「よう」
 と声をかけたら、
「お?」
 と、化野はこちらを向いて、眼鏡無しの右目を眇めると、すと立ち上がって、何となく、見ていておぼつかなく感じるような足取りで、ギンコの方へと歩み始めた。
「あー、座ってろ。今、行くから」
 ギンコは、足を速めて、化野にそう言ってやったが、化野は、縁側へ戻ろうとはせず、よたよたとこちらへ近寄って来る。すぐに、ギンコは、化野の目の前に行き着いて、立ち止まった。が、化野は、更に近寄って来て、ぐいーっとギンコの真ん前に顔を突き出して、
「ああ、お前か」
 なんて言って、嬉しそうに笑うものだから―――
 つい、その唇に口づけた。
 一瞬、きょとんと見開いた目が、軽く閉じられる。
 しっとりと、やわらかな唇の感触。
 ひと月ぶりの、化野の―――
 今少し、そうしていたかったが、ここでは、いつ、近所の子供らに見られるかも知れない。
 すぐに、離れて、ギンコは、
「そんな、ぼけっとしてると、狼が出るぞ」
「出たな」
 へろりと、化野は答えた。
 まさか、他の誰かにも、こんなふうに容易くつまみ食いされているんだろうか?
「お前―――警戒心無さすぎだろ」
「あ? 別にいいじゃねえか。相手は、珍種の白狼だ」
 化野は、笑い出して、
「誘ってる、って考えはないもんかね? 好い仲なのに」
「・・・あー、お前、良くねえのは、片目だけだったな」
 化野は、にやりと笑って、
「バレたか」
「バレたも、何も・・・」
「あー、あや、右目だと、本っ当にこれくらいでなけりゃあ見えんのだ」
 と言って、にぃっと口の端を伸ばしておどけた表情で、また、ぐいーっとギンコの目と鼻の先まで顔を突き出して来た。
 これは、もう―――また誘っている、という訳ではなさそうだ。
 まあ・・・庭端の猫道の方から、何か―――猫より大きなものが近づいて来るような草音もしてきたことだし(ちっ)。
「片眼鏡をしていると、右目の方が、していない左目よりよく見えるもんでな。つい、右目でばかり見る癖がついてしまってな」
「何だかよたよたしてたぞ、こっちへ歩いて来る時」
「視力が左右違い過ぎると、どうもな」
 と、化野は、苦笑して、
「俺の場合、乱視も入ってるんで、ひのって見えるのと見えないのも二重に見えて―――まあ、人の顔を判別するには、こんなには近づかなくても大丈夫なんだが――― 」
 がさがさという足音が、庭内に入って、だんだん近づいて来る。ヒョイとそちらへ目を向けてやると、その音は、ピタリとその場所で止まって、向こうの芍薬の茂みの上に、見知った子供らの顔が三つ、飛び出した。
 前に、化野の蔵の中の物をイタズラして蟲患いになった、ご近所の子供ら―――シン、リョウ、八重の三人組だ。
 シンが、ビッとこちらを指さして、
「あーっ、化野先生、ギンコとちゅうする気だ」
 お? してた、じゃねえな。
 同じことを思ったらしい化野も、こちらを見てふっと笑うと、
「最近回って来た読み本に、口づけを『ちゅう』と書いている本があってな」
「ほう」
 それを知ってる、ってことは、お前も読んだのか。
「うわあ、『見つめ合って』る」
「ちゅうする気だ。ちゅうする気だ」
「ちゅう、ちゅう」
 色気づいたというより、知りたてほやほやの言葉を使ってみたいだけの男子らに、化野は、
「ネズミか、お前らは。人の難儀をひやかして遊ぶんじゃない。お前らが、俺の眼鏡を壊したからだろう」
「ごめんなさーい」
「ごめんなさい、先生」
「ごめんなさい。眼鏡壊したら、ちゅうしたくなるの?」
「シンは、反省が足りないようだな。こっちの目だと、あの位近くからでなけりゃ見えんって話だ」
「うわあ、そうなの?」
「じゃあ、先生、俺の顔も見て!」
「俺の顔も」
「私もー」
 たちまち、子供らは、わらわらと化野に群がり寄って来た。自分らの顔と化野の顔を近づけようと、三方からぐいぐい袖を引いて化野を屈ませようとする。
「こらこら、そんなに引っ張ったら、袖が破れる―――おっ?」
 と、化野はぐらついた。
 ぐい、と二の腕を掴んで、ギンコが支えてやる。
「すまんな」
「危ねえな。今日はもう中へ入って、休んだ方がいい」
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