蟲師捏造話 2

□白い月(P3)
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白い月

 晴れた、気持ちのいい宵だった。
 小さな漁師町で磯漁の手伝いをしている、浜の娘いおは、網元からことづかった、鮮魚料理のお弁当を届けるために、浜から里山へと上って行く、川沿いの小道をたどっていた。
 弁当、とは言っているが、この三段重ねの大きな重箱の中身は、たいそう豪勢なものだった。
 届け先は、この町でただ一人の医家である、化野(あだしの)先生の家だ。
 こんなふうに、日も傾く頃になってから急に、化野先生が、酒の肴(さかな)というよりも、しっかりと栄養のとれるような夕食、といった内容の鮮魚料理を、二人分、などといった注文をしてくるのは、たいてい、流しの『蟲師(むしし)』で行商人のギンコがやって来た時だ。
 ギンコーーーさん付けはいらねえよ、とギンコが言うので、化野先生も、いおも、町の人たちも皆、そのように呼んでいるーーーは、この町に寄る時はいつも、忙しい医家の化野先生が、午前の診療も午後の往診も終えた頃に着くようにと、頃合いを見計らってやって来る。なので、ギンコが来た時の注文は、こんなふうに、午後も遅い時間になって来るのが常だった。
 −−−蟲(むし)という、ふつう人の目には見えない、われわれとは異なる生命の在り様で、この世に存在するモノたち−−−それらのモノたちが引き起こす様々な障りの原因を調べて、取り除いてくれるのが、ギンコたち蟲師の主な仕事だった。
 この町で、蟲患いと思しき患者が出れば、化野先生から、ギンコに見立てや治療の依頼がゆく。
 そんな、信頼のおける、腕のいい蟲師であるギンコが、何故、この町に留められもせず、流しでやっているのかと言うと、いかんせん、ギンコは、その『蟲』を寄せる体質なのだ、という。
 蟲というものは、集まり過ぎると、色々とよくないことが起こりやすくなるのだそうで、ギンコは、この町にしろ、他のどんな場所でも、ひとつ所に長く居ることは出来ないのだ、ということだった。
 が、そこで、化野先生は、諦めたりはしなかったのだそうだ。
 かくして、ギンコは、流浪の身ながら、この町の、いわば『おかかえ蟲師』となり、可能な限り、定期的に、この町にやって来ては、町の中やその周辺に、危険な蟲や、注意を要する蟲がいないかどうかなどを見ていってくれたり、蟲患いと思(おぼ)しき者があらわれれば、その診立てや治療の相談に乗ったりしているのだ、という。
 かく言ういおも、そんなギンコに助けられたのだった。
 いおの生まれた村は、この海辺の町ではない。
 それは、遠い、山間の小さな、貧しい村だった。
 その村を潤す大きな河のほとりで、水禍の濁流に飲み込まれたいおは、『水蠱(すいこ)』という、旅をする沼のような蟲に、半ば取り込まれることで、その蟲に命を拾われたのだった。
 そうして、その蟲に半ば取り込まれたまま、その蟲と共に、いくつもの山を越えて、旅を続けてーーー
 もしも、その旅の途中で、ギンコと出会わなかったなら、いおは、その蟲に身も心も取り込まれて、いつしか、その『蟲』となり、その蟲が死に場所と定めたこの海で、蟲と共に命を終えていただろう。
 が、この町へ向かう途中だったギンコが、その『生き沼』とともに旅するいおを見かけて、蟲ではなく人の世の方にいおを呼び戻し、化野先生やこの町の漁師さんたちの協力を得て、海水に漬かって死んだ水蠱から分離して、漂い流れていたいおを救い上げてくれたのだった。
 ギンコや、化野先生がしてくれた水蠱や、蟲というものの説明を聞いた限りでは、つまり、そういうことであるようだった。
 蟲に取り込まれるなどして、一時、蟲の気を帯びると、人の世に戻りたい、という強い気持ちがなければ、戻っては来られなくなるものであるらしかった。
 −−−が、今は、こうして、人の世に戻り、化野先生とギンコの口利きもあって、網元を後見人に、この浜の娘として暮らしている。
 そもそも、どうして蟲に命を拾われるようなことになどなったか、と言うとーーー
 それは、ここでは、まだ、誰にも話したことはなかった。
 命の恩人であるギンコにも、化野先生にも。
 大きな河のほとりにあった、いおの生まれ故郷の村は、しばしば、水禍に見舞われる土地だった。
 ゆえに、水神信仰の厚い村でもあった。
 そこで、彼女は、生贄に捧げられたのだ。水禍から、村を守るために。
 それを拒む、という選択は残されてはいなかった。
 もしも、あの時、いおがそれを拒んでいたらーーーそれでも、いおは、簀巻きにでもされて激流に放られ、いお亡き後には、母もまた、村八分にされて、餓死させられることになっていただけだろう。
 拒むことは出来なかった。
『せめて、これを着ておゆき。水神さまの嫁になるのだと思っておくれ』
 そう言って、母が着せ掛けてくれた赤い着物。
 染物の上手な母が、そろそろ年頃になろうといういおの為に作ってくれた晴れ着だった。母ひとり子ひとりの、貧しい村の中でも貧しい家だったが、木綿の布を鮮やかに染め上げて、目にも綾な晴れ着を作ってくれた。
 その鮮やかな赤が、人の目を引いて、いおが、誰かに助けて貰うことが出来るように、とーーー
 せめて、どこかで生き延びてーーーと、願うことさえ許されなかった。それは、この荒ぶる神が、村の捧げものであるいおに満足しなかった、ということになるのだから。
 あの水蠱は、河の神ではない、とギンコは言っていた。
 もしも、その河が『ヌシ』のいるような河であったとしても、河の『ヌシ』は、人の贄(にえ)など、たいがい欲しがりしないものだ、と。
 あの、故郷の村は、あの後、水禍から救われたのだろうか?
 いつの間にか、化野邸の、門代わりの庭木の前まで辿り着いていたことに気づいて、いおは、苦い記憶の中から立ち返った。
 ふと、立ち止まって振り返る。
 浜から、川沿いにゆるやかに上った、山裾の小丘の上にある、この診療室兼住み家でもある化野邸の前庭からは、裏の里山から、浜や街並みまでが、一望に見渡せた。
 岩場と白い砂浜の混在する浜と、この小さな漁師町に住む人々が暮らす街並み。
 里山の山道から、この家の前庭へと続く、荷車も通れるような、けっこう幅広の道の片側は、小高い崖のようになっていて、そこから、後ろの山脈を分けて流れてきた、大きな河の河口と、ゆるやかな弧を描いて広がる水平線が、夕日の示す黄金色の道筋を映していた。
 ひろびろとした、素朴な風景。
 豊かな漁場と、豊かな里山に囲まれた町。
 ここでは、誰も、誰かを殺さない。
 クルリと前へ向き直ると、いおは、化野邸の、門代わりのような庭木の間を抜けて、お勝手の方へと歩いて行った。
 玄関の横を通ると、縁側のある中庭の方から、ギンコと化野先生と思しき、二人の話し声が聞こえてきた。
『久しぶりだな、ギンコ。ひと月ぶりか? 待ちわびていたぞ』
 ギンコは、まだ、この家に着いたばかりであるらしかった。
 海沿いの街道を辿ってやってきたギンコを見かけた誰かが、さっそく化野先生に知らせてやったのだろう。化野先生の方は、準備万端なようだ。
『この木箱の中身を、か?』
 戯れ言を返すギンコの笑い声が聞こえた。
『無論、それもある』
 わくわく、そわそわと落ち着きなさげな化野先生の声音に、思わず、くすっ、といおは笑った。自然、足取りも軽くなる。
 化野先生は、腕のいい医家としてだけでなく、珍品・お宝の蒐集家、あるいは、蟲好みの好事家としても、よく知られている人だった。そして、蟲師であるギンコが持ってくる品といったら、そんな化野先生=垂涎の蟲がらみの珍品ばかりなのだ、という。
 ギンコにとっても、欲しいとなれば、ほぼギンコの言い値で買ってしまう化野先生は、上客であるらしい。
(はやく、ギンコと化野先生に会いたい!)
 勝手口から、この家の台所を預かる隣家の娘にお弁当の重箱を手渡すと、いおは、急いで庭をまわって、小走りに走って、縁側の方へと向かった。
 例の、蟲を寄せる、という体質の為、近くても、丸ひと月は必ず空けてから来るギンコには、来る度、会えるようにと頑張っても、その、会える機会自体が、なかなか、無い。
 ギンコと、この町の『おかかえ蟲師』としての契約をしている化野先生も、せめて、その、最短の、お月さま周期で来て欲しいと思っているようだが、なかなか、そうもいかないのだ、ということだった。ギンコには、時々、他からの仕事の依頼が入ったりもするし、何より、どうも好きこのんで、蟲がらみの何かに巻き込まれたりしては、ひと月どころか、時には、数ヶ月もの間、行方不明になったりなどしているらしい。
 そんなギンコなものだから、せめて、来る度には会えるようにと、いおも、一生懸命だ。
 網元のおかみさんにお願いして、いおは、網元が営んでいる、化野先生=ご用達の仕出し料理屋『磯味屋』の配達の手伝いもさせて貰っていた。そうして、化野先生の家へのお料理運びはすべて、いおにさせて貰うことで、いおは、いおなりに、ギンコが来るのを『張って』いるのだった。
 お勝手口から、また玄関前あたりまで来ると、ギンコと化野先生の話す声が聞こえてきた。
『町のモンは、みな、息災か?』
『ああ。最近は、持病の年寄り連中を相手に、のんきにやってるよ』
 庭木の間からひょこりと顔を出してみると、、ギンコは、荷を下ろして、縁側のふちに坐っており、化野先生が、お茶を淹れてきたところだった。
 先生が、自分で淹れているところをみると、たぶん、何かしら珍しいーーー時には、奇妙な、ともいうーーー茶葉であるのだろう。
 化野先生は、すぐに、いおに気づいて、
「やあ、いお」
 と、にっこりと手招きしてくれたので、
「こんにちは」
 と言って、いおは、二人の傍へ寄って行った。
「そこに坐りなさい」
 と言ってくれたので、いおは、自分も縁側に腰掛けた。
「よう」
 と、蟲煙草をくわえようとしていたギンコも、しばし、手を止めて、ニッと口の端を上げる。
 化野先生は、にこにこと機嫌よさげで、
「ギンコ、長旅で喉が渇いただろう。いお、お前さんも、まあ、一服していくといい」
 盆に二つ載せてきていた湯飲みと、茶菓子を、ギンコといおの間に置いて、化野先生は、いおにも、それを振舞ってくれた。嬉々として、自分の分の湯飲みと茶菓子を追加しに、奥へと戻ってゆく。
 ギンコは、いおと顔を見合わせると、ニッと笑った。
 不思議な風貌をした人だった。
 たぶん、年の頃は二十代後半くらい。なのに、総白髪の老人のようなまっ白な髪をしていて、瞳は碧。どこまでも透けるようでいて、底は見えない、水のきれいな深い海のような目をした人だった。長く伸ばした前髪に隠されている左目は、普段は義眼を入れているが、あの義眼をはずしてみても、肉色の眼窩ではなく、漆黒の闇が湛えられているのだ、という。
 この不思議な風貌ゆえか、ギンコは、人里を旅するより、山間の道筋を辿ることの方が多いらしかった。ある種の、信仰の厚いような郷(さと)では、この風貌ゆえに、危険に晒されることもあるらしい。
 蘭方の医学も、科学も修めたという化野先生の言うことには、
『異形排斥だの、生贄なんぞで、何も変わる訳がない。それより、川縁に土嚢を積むとか、笹や樹木を植えて地盤を固めるとか、鼠を退治したり、予防接種をして、疫病を防いだりとか。そういうことをすりゃあいいんだ』
ということだった。
 が、どこかでは手酷い目にも遭っているのかも知れない、この人は、ほんの一夜だけ『生き沼』の話をしただけの、いおを助けるために、この町の名士である化野先生に頼んで、この町中の漁師さんたちを集めてくれさえした。
 そんな人だ。
 さて。
 珍品好きの化野先生の、この手のもてなしが、美味か、そうでないかは、『時の運』だ。
 湯飲みに顔を近づけると、中から、苦そうな匂いがした。
 そう、嫌な匂い、という訳ではないのだけれど。
 口をつけるのに、しばし躊躇する。
 ギンコもまた、かるく息を吸って、湯飲みの中の香りを確かめながら、
「元気そうだな、いお」
「ええ」
 頷いて、ふたり、湯飲みに口をつける。
「あ?」
 一瞬、ギンコは顔をしかめたが、ごくごくと、無造作に飲み干してしまった。いおは、笑って、
「ギンコもーーー 」
「おう。お前は、どうしていたんだ、ギンコ?」
 自分の分の湯飲みを手に戻ってきた化野先生が、話の輪の中に戻ってきた。
「ひと月も空けたら、何かしら、出物や、面白い話があるんじゃないのか?」
 勿論、それ以上に近く来るのがよくないこと、とは承知の上での戯れ言だ。
「ひと月なら、順当だろ?」
 と、ギンコもかるく返した。
「だが、そうだな。化野先生には、いい値で買って貰えると期待してるぜ」
 にっ、とギンコが笑って、化野先生も、にこっと笑った。
「ほう。こりゃあ、期待出来そうだな」
 化野先生は、ほくほく顔で、
「一服したら、ここで荷を開けよーーーって、ん? もう、飲んじまったのか?」
「ああ」
 と、ギンコは頷いた。
「さて、と。まずは、仕事が先だな」
 化野先生は、ぽかんとしていたが、すぐに、気を取り直して、ギンコに、
「で? どうだった、この豆茶の味は?」
「苦かった。豆茶?」
 目を丸くして、ギンコは問い返した。
「葉っぱじゃなくて豆でも、茶って言うのか?」
「ああ・・・まあ。おう! これは、珈琲というものだ」
「ほーう」
「ほーう、って・・・それだけか?」
「いや、まあ・・・こういう味のもんだ、というんなら、それなりの味だがな、うん」
「こういう味のもん、ね。はあ」
 化野先生は、深々と溜め息をついた。
「・・・まあ、確かに、苦いがなあ」
 ふと、化野先生は、顔を上げて、いおの湯飲みに目を留めて、
「おっと、いかんな。蜜と牛の乳を混ぜてやるのを忘れていたよ。子供に飲ませる時には、そうしてやった方がいい、と聞いていたのだった」
「え、私、いいですよ」
 と、慌てて、いおは言った。
 牛の乳なんて、いおは、飲んだことがない。
 が、化野先生は、





 
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