蟲師捏造話 2

□乙月文(P9)
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乙月文(オトツキブミ)

 深い山並み(やまなみ)を背にした、とある小さな漁師町の里山の麓(ふもと)に、そこの町医家で、珍品好みの蒐集家(しゅうしゅうか)としても知られる化野(あだしの)の診療所・兼・住み家はある。
 晴れた気持ちのいい朝だった。
 淡い水色の空の下、白い砂浜にさざ波を寄せる風が、静かな波音と磯の香りを、この、山裾の家にも運んでくる。庭木の合い間から垣間見えるその家の障子や襖(ふすま)は開け放たれ、広々としたその空間に爽やかな風を走らせていた。
 縁側から居間を覗くと、その家の主である化野先生が、正座して、その膝の上にかるく両手を乗せて坐っている。
 少し、目が腫れぼったいと言うか、いや目蓋が重そうな顔をしているのは、昨夜、あまり寝足りなかったせいだろう。明け方に往診に呼ばれて帰って来たら、もう、朝の早い年寄りの患者連中が集まった来ていたので、そのまま続けて、朝のひと仕事を終わらせてしまったのだった。午後の往診が必要な患者も、久々に、今はなく、あとは、遅い朝食の用意が出来たら、それを食べて、寝るだけだ。
 背後の奥部屋には、これまでに、この先生が蒐集してきた沢山の医術書やその他の書物が収められた、天井まで届くような大きな戸棚があって、部屋の三つ壁を覆い尽くしていた。その手前には、奇妙で、怪しげな珍品・お宝の数々が、ところ狭しと並べられている。それらの品々は、この先生が、日々、そこを通る度に、ふと足を止めて、眺めたり、時には手に取ってみたりして、心潤せるようにと、透明な硝子の上蓋のついた箱などに入れられて、整然と並べられていた。
 無論、この奥部屋に仕舞われてあるものだけが、すべてではなかった。向かいの蔵の中にも、そういった珍奇で不可思議な品々がイッパイに溢れているのだ。
 化野の向かいには、彼の客、というか、彼を客にしに来た娘が、傍らに降ろした木箱のトランクの中から、何やら品物を取り出しては並べていた。
 細長い小さな引き出しが十幾つは収められている、その木箱のトランクは、『蟲師(むしし)』という仕事を生業(なりわい)とする者たちが持つ、独特の代物(しろもの)だ。
 蟲(むし)。
 という、われわれとは異なる生命の在り様でこの世に存するモノたち。
 そんな『蟲』と人とが出会って生じた様々な障りを解き明かし、取り除くのが、彼女たち蟲師の仕事だった。
 そんな中で手に入れた蟲がらみの珍品・奇品は、化野のような蟲好みの好事家たちが、高値で買い上げてくれる。むしろ、こちらの商売の方が、本来の蟲師仕事で得られるよりも、何倍も金になるのだった。
 まして、この化野先生、そんな蟲がらみの珍品・お宝を集めている癖に、極めて妖質の乏しい者に見える程度にしか、蟲が見えないのだという。それでも、品を見て、その蟲がらみの由縁を聞いて、気に入れば、ドン!と言い値で買い取ってくれるというのだから、蟲師たちにとっては、この先生、大変ありがたい客なのだった。
 さて。
 化野先生、並べ終えた幾つかの品々を、膝にかるく手をおいたまま、さらり、さらりと眺めていった。
 その様を、息をひそめて、うら若い娘の蟲師が、両の手をぎゅうっと膝の上で握りしめながら、じぃっと見つめている。
 なにしろ、この家でも、何も買い上げて貰えなかったら、また明日からも、野宿と野草鍋だ。なにより、山野で、自分で採集したりして作ることの出来ない類いの、蟲払いの薬草の幾つかを買い足す元手が欲しかった。
 が、化野先生の気を惹くような物は、何もなかったようだ。
 ふい、と娘の方に顔を上げて、化野は言った。
「他には、もう、何もないのかね?」
「あああの…」
 口ごもり―――が、思い切ったように、娘は言った。
「あることはあるんですけど…」
 急いで、木箱のトランクを開けると、娘は、下の方の引き出しから、小さな硝子(ガラス)壜を取り出した。
 首を伸ばし加減にして、化野先生は、その小壜の中を覗きこんだ。
 中には、淡い水色の、小豆粒くらいの小さな花びらのようなものが、ふうわりと宙に浮いたまま、閉じ込められていた。
「ほう。何だね、それは?」
「蟲です」
「蟲?」
 先生の、右目にかけられた片眼鏡がキラリと光った。
 娘の瞳も、期待に踊る。
(これは、買い上げて貰えるかも!)
 でも…
 娘は、恐る恐る、といった様子で、
「『乙月文』っていう蟲なんですけど…」
「オトツキブミ…」
 復唱して、目で、説明を促す化野先生に、娘は、『乙月文』と指で畳の上に書いて見せた。
「ほう。これは、また妙な名前の蟲だな。いや、むしろ、この蟲の名付け人は、乙なものに目の無い数奇者な御仁であった、と思うべきかな」
「ええ、これ『乙月文』なんです―――でも、その、私、この蟲のこと、よく知らなくて――― 」
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