蟲師捏造話 2
□フイリバ(P13)
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フイリバ1
薄青くけぶる遠い山々の峰が美しく見渡せる、とある峠の蕎麦屋で、一人の男が、うまそうに蕎麦をすすっていた。
傍らには、片開きの分厚い木蓋で閉じられた、大きな木箱のトランクが置かれている。背負い紐のついた独特な形状をしたものだ。
この男、年の頃は恐らく二十代後半くらい。中肉中背の体型で、こんな山奥では滅多に目にすることのない『洋服』を身に着けていた。が、少しだぼついた白い木綿の貫頭衣にズボンに靴、といったその服装は、街場でもまず見かけないような、奇妙な洋装だった。
そんな、いかにも着心地良さそうに着崩した形(なり)だが、、存外にきれいな箸使いをする。骨太な、細く長い指。竹椅子に腰掛けた腿(もも)の丸みが、旅慣れた者の肉付きの仕方を示していた。
髪は短髪で、総白髪。
目は、硝子玉のような―――透き通るように奇麗な碧(みどり)色をしていた。
「おかみ、蕎麦おくれー」
そう、店の奥へと声をかけながら入って来た別の客が、男の傍らに坐ろうとして、ふと、目を瞠る(みはる)。
男は、蕎麦をすすりながら、かるく会釈をした。
「はいよ。おひとつ」
が、注文を受けて、また、中へと戻って行った蕎麦屋のおかみは、一顧だにしない。どうやら、もう何度もここを訪れたことのある客であるようだ。
好奇心も手伝って、その客は、男に声をかけた。
「兄さん、ここ、よく通るのかい?」
さらに、傍らに置かれた木箱のトランクを見て、
「へえ…あんた、ひょっとして、『蟲師(むしし)』さんかい」
『蟲師』という仕事を生業(なりわい)にしている者がいる、というのは聞いたことがあった。
男の傍らに置かれているような、背負い紐のついた大きな木箱のトランク。中には、こまごまとした道具類や薬草類も迷わず取り出せるように、と大小の引き出しがぎっしり収められているのだ、という話で、『流し』で仕事をしている蟲師たちは皆、それを背負って旅している、と聞く。
そう言えば、どこぞの山間(やまあい)の里で、町のお医家(いか)がたにも治せなかった『片耳だけ聞こえなくなる』という奇妙な耳病みを治した、という話の『蟲師』が、こんな白髪頭の兄さんだった、というのを、どこかで聞いたような記憶があった。
男が、蕎麦を頬張りながら頷いたので、その客は、男の奇妙な容姿にも、いくらか納得がいったようだった。
やがて、その客の分の蕎麦が運ばれてきた。
「お、美味そうだねえ」
男にかるく会釈を返すと、その客も、自分の蕎麦をすすり始めた。
さて。
男の名は、ギンコ。
この客が聞いていた話の蟲師とは、まさしく彼のことだ。
カタタタッ、と傍らの木箱のトランクの中から、ウロ繭(まゆ)に文(ふみ)が届いたことを示す振動が伝わってきた。
『ウロさん』と呼ばれる伝書蟲の一種に文を運ばせる、蟲師特有の通信手段だ。
「ん?」
椀を置いて、ギンコは、木箱のトランクを開けた。
片開きの厚い木蓋を開けると、中には、大小十幾つもの引き出しがみっちりと収められていた。
そのひとつから『ウロ繭』と呼ばれる、カイコの繭で作った、小さな白い繭を取り出すと、ギンコは、鈎爪のついたウロ文専用の蟲ピンを使って、ウロ繭から小さな紙片を引き出した。普通の書状のようには大きくはないものの、その小さなウロ繭から引き出されたとは普通、思えないような大きさのその文(ふみ)を、まるで手品のように引き出して、ギンコは、縒れた(よれた)その紙片をのばし見た。
「ん、化野(あだしの)?」
と呟いて、ギンコは、目を見開いて、その紙片を持ち直した。
楷書で読みやすく書かれたその文は、十日ほど前に出てきた小さな漁師町に住む、ギンコのお得意様で、友人―――あー、いや、今や恋人でもある、医家の化野からのものだった。
蟲(むし)。
という、われわれとは異質な生命の在り様で、この世に存在するモノたち。
そんな、蟲と人とが不幸な関わり方をしてしまった時に起きる『障り(さわり)』を調べ、取り払うのが、ギンコが生業(なりわい)としている『蟲師』の仕事だった。
が、ギンコ自身、その、集まり過ぎれば、それだけで人に障りを及ぼすとも言われる『蟲』を、その身に寄せる体質だった。半年も居続ければ、その地を蟲の巣窟にしてしまう。だから、何処にも居着かず、常に『旅が棲家(すみか)』の浮き草暮らしで、蟲師の仕事も『流し』でしていた。
が、そんなギンコに、この化野という医家の先生は、
『ならば、せめて、旅の間に間にでいいから、出来得る限り近い間隔で、時々、寄って行っては貰えんだろうか?』
と言ったのだ。
彼の住む小さな漁師町の、言わば『おかかえ蟲師』になってほしい、と。
『なに、難しい話じゃない。俺の知る治療の効果がはかばかしくない患者の中に、蟲患いと思しき者がいないかどうか、時々、相談に乗って貰いたいんだ』