蟲師捏造話 1

□働き者(P9)
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働き者 2

 庭先に立つギンコの来訪を気配で察して、化野は、ぽつりと呟いた。
「・・・やられた」
 鼠か。
「よりによって、こいつを食うか? 忌々しい奴らめ! 高かったんだぞ、これは!」
 地団太を踏んで、悔しがっている。
「何をやられたんだ?」
 とたずねると、化野は、もはや残骸と化した冊子の背表紙らしきものを掲げて見せた。辛うじて『写本山海経』とか『季刊 蟲好み』などと読める背表紙が握られているのが読み取れた。まあ・・・鼠にやられたからといって、そう困るようなものではなかったようだ。もっとも、『写本山海経』の方はともかく、『季刊 蟲好み』という、言わば蟲好みの為のお宝図鑑本は、ある意味、売りに出た時期を逃せばまず手に入らないような類の書には違いないので、化野にとっては、憤懣やるかたないといったところであるのだろうが。
「ここのところ、被害にあわなくていい塩梅(あんばい)だと思っていたのに!」
「・・・・・」
 これが、高価な医学書の類であったとしても、また買い直さなければならない手間と金を思って文句を言いはするだろうが、こういう惜しがり方はしないだろう。趣味というものは、人を子供に返してしまうものであるらしかった。
 他に被害はーーー 
 と辺りを見回して、そう言えば、初めてこの部屋に入らせて貰った頃には、もっと、足の踏み場にも困る程そこかしこに鼠取りようの罠が仕掛けられていたのを、ギンコは思い出した。あの時は、とある蟲患いの症例の記された書を化野が持っているというのを聞いて、それを見せて欲しいと頼んだのだった。化野は、気前よくそれを見せてくれたばかりか、新参者の流しの蟲師をあっさりと信用してくれ、この書庫・兼・蒐集蔵へと招き入れてくれたのだった。
 化野は、言った。
『俺もいつ入用になるかも知れんから帯出させてはやれんが、ここで見て行く分には、どの本でも勝手に見て行ってくれてかまわんよ。蟲がらみの症例を集めた書は、そこの戸棚の中の巻物とーーーお前さんたち蟲師は、巻物を帳面に使うことが多いようだなーーーその戸棚の右側の一角に積んである書物だ。呼んだら、元の位置にもどしておいてくれ。後でまた探す時に困るんでな。背表紙に番号がふってあるだろう? その番号の山に戻しておいてくれりゃいい。お前さんの読みたい症例というのは、たぶん、この書か、こっちの巻物に載っているヤツだとーーー 』
 そう言いながら、化野は、そこに何があるからなのか、書の山の間の通路をやけに大股歩きで、それらを抜き取って歩きながら、
『ああ。それから、何処とは言えんのだが、足元には充分気をつけてくれ』
 その書庫代わりの、居間の奥部屋の中には、部屋中いたるところに鼠捕りの罠が仕掛けてあったのだ!
『何度も買い足しているうちに、もう自分でも何処と何処に仕掛けたものだか分からなくなってしまってな』
 そう言い加えて、恥ずかしそうに医家は苦笑した。
 まあ、そんな訳だから・・・足元には充分気をつけてくれ、と。
 が、その鼠捕りの数も、ある時いきなり激減していて、今では数える程になっていた。大丈夫かよ、と思いつつも、おかげで、書庫漁りは俄然楽になったので、ギンコも、あえて意見したりはしなかったのだった。あれだけの罠を仕掛けて、大事大事に書物を守っていた医家がそう判断したことなのだ。それに、この3ヵ月ほど前までは暫く、月1のペースでここへやって来ては、ついでに、この書庫・兼・蒐集蔵で高価な蟲がらみの文献の数々を読書三昧させて貰っていたのだったが、確かに、鼠の姿も、床や天井を走る足音もまったく聞かないようになっていたのだ。
(そうか。三月前までは、けっこう足繁く来られていたからな)
 化野家の書庫では禁じられていないのをいいことに、ギンコは、この書庫・兼・蒐集蔵の中でも蟲煙草を吸っていたのだった。化野の住むこの漁師町は豊かな土地だったので、さまざまな蟲がそこかしこに浮遊していたし、また、何しろ、収められているモノがモノだったので、蟲煙草なしでは煩わしいことこの上なかったのだ。
 が、鼠に寄られたことなどなかったので、今まで忘れていたが、そう言えば、鼠のような小動物も蟲煙草の煙を嫌うらしい、という話は聞いたことがあった。木造家屋では、どんなに厳重に戸締りをしたって鼠を締め出すことなど出来ないが、蟲煙草の煙が蔓延した後ともなれば別だったのかも知れない。鼠は蟲ではないが、臭いを嫌うというよりも、捕獲するモノの存在を感じ取っていたのかも知れなかった。が、暫くギンコの足が遠のいていたので、蟲煙草の煙も次第に薄れ、またこの書庫代わりの部屋にも鼠が入り込めたという訳だ。
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