その他・復活1

□49日後さえも僕はここにいない
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ひどくよく晴れた空だった。雨の一つでも降っていてくれれば、眼から零れ落ちそうになる涙も、手のひらで乾き始めた血も、全て洗い流してくれるというのに。


懐かしい夢を見ていた。母親がピアノの前に座って、まだ幼い獄寺に笑いかけている。白く細い、繊細な指先は、鍵盤ではなく自分の頭に添えられていた。別段取り立てて言うことでもない、それなのに今日の夢はいつもより長く感じられて、獄寺は咄嗟に、窓から差し込む朝の日差しをカーテンで遮ってしまった。
いつもブラックで飲む筈のコーヒーに、今日に限ってフレッシュと砂糖を入れたのもそのせいかもしれない。白く濁った底でじゃり、と細かい粒がティースプーンと触れ合う感触がして、獄寺はうんざりした。どうにも食欲がわかない。まだ朝早かったので、リビングの適当な椅子に半分くらい腰掛けて、一人甘すぎるコーヒーを啜った。以前山本から一口貰ったコンビニのカフェオレと同じくらい甘い。重症だ。座りながら、獄寺は今日一日の予定を考えた。作成中の書類が自室の机に山のように積まれていたから、まずはそれを何とかした方がいい。それから切れかけの麦茶を買いに行って、ついでに長期任務から帰ってくる山本を迎えに行くことにしよう。あくまでも麦茶のついでである。
砂糖の溶け残っていそうな下層だけをカップに置き去りにし、獄寺は席を立った。梅雨明けが近いのか、太陽が数日前よりも輝いて見えたが、子供の頃よく目にした入道雲には、ここ数年あまりお目にかかることはなかった。


ぬめる血がワイシャツの襟を濡らす頃になっても、獄寺は凍りついた人形のようであった。こういう場合、倒れた人間を担いでその場を離れるのが正しいように思われた。しかし頭でそう思うだけで、身体はというと全く意に反している。それどころか、声帯を震わすことも、指の先端さえ動かすことが出来ない。抱き込んだ山本の瞼に落ちた雫が、雨でなく自分の涙だと気付いたのは、もうずっと後のことだった。


背中に突き刺さるような日差しが、あの日と同じである。朝飲んだコーヒーのカップを、そのままにして部屋を出たことを獄寺は後悔した。


中学生の頃とは変わってしまったのだと、山本を抱き起こそうとして気付かされた。あのとき既に抜かされていた身長は、大人になった今でもその差が変わらない。身長だけでなく、他の何かにつけてもそうだった。コンプレックスとかそういう類のものを初めて自分に植え付けたのは、他でもない山本張本人である。それを憎らしいと思う反面、彼を羨む気持ちが身体の半分を侵食していくのを感じて、つい最近も厄介に思ったのをよく覚えている。

「山本、」

やっとの思いで搾り出した声は、雨の後の澄んだ空気に吸い込まれていった。少年からすっかり大人へと変わってしまった男の顔には、昔はなかった傷がある。情事の最中、いつも感じていた心地の良い重みが、今はまるで鉛のように、獄寺の腕にずしりと乗りかかった。自分一人では抱き起こすこともままならないくらい、彼との体格差は大きかったのだろうか。それとも今は負傷している右足のせいだろうか。山本は動かない。獄寺はもう一度その場へ座り込んだ。というよりも、崩れ落ちたに近かった。手のひらを地べたに付いた拍子に、目頭から熱いものが溢れた。それは山本の頬を、唇を、髪を湿らす。雨、だと思った。血の匂いだとか、肩に掛かる重みだとか、そういったものが10代目を失ったときとよく似ている。ワイシャツは血液を吸い込みすぎて、硬くなりかけていた。
雨である筈がないのだ。山本が死んだ瞬間から、もう獄寺に雨が降ることはなくなった。優しい五月雨が山本を包んでくれることもない。だいいち、その雨を降らせてくれる大空さえ、もう獄寺には存在しなかった。ならば止め処なく滴る、この雫は何だろう。

「勝手に、逝ってんじゃねーよ……」

獄寺は山本の身体をさっきよりもきつく抱き締めた。高かった彼の体温は拭い去られていて、まるで氷に頬擦りするかのようだった。反対に自分の目の奥は熱い。固まりかけた血の上に涙が落ちて、絨毯のように紅い染みがじんわりと広がった。


再びあの部屋へ戻ったのは、それから数日後のことだ。次の任務のため、6時間後にはイタリアへ発たなくてはならない。獄寺はまたいつものように、眉間に皺を寄せていた。
ふと、テーブルの上で置いてきぼりをくらったコーヒーカップが目に止まる。あの日の朝ほったらかしていったものだ。やはり片付けておけば良かったと獄寺は思った。ここに座って、今はもう帰って来ることのない男のことを少しでも考えていたなんて、何だか妙な気分になる。小さく息を吐き出して、獄寺はカップをシンクへと運んだ。底にこびり付いた茶色は、恐らくちょっとやそっと擦ったくらいでは取れないだろう。血の付いたワイシャツも、結局駄目になってしまった。

「お揃いだな」

オレも落ちないんだよ、と獄寺は付け加える。その目はキッチンの小窓に向けられていたが、実際はどこを見ているのか自分でも分からなかった。
自嘲的な笑みを浮かべると、獄寺はスーツケースを持ち上げた。拭っても拭っても、きっとこの痛みが消えることはないように思う。いずれ山本とひっそり暮らしたこの部屋も、引き払わなくてはならない。自分一人では、テーブルもベッドも大きすぎた。

「(じゃあな、野球バカ)」

部屋の隅、忘れられたように立て掛けられていた古いバットを横目に、獄寺は携帯電話を耳に押し当てた。今日からまた忙しく、世界各国を飛び回る日々だ。次にここへ来るときには、少ない家具を片付けようと思う。皮肉にも、初夏を迎えたばかりの空はからりと晴れ渡って、良い天気だった。





49日後さえも僕はここにいない






(2008/3/23)
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