その他・復活1

□嗚呼麗しの母君よ
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 私の母はとても美しいひとです。細身のブーツは彼女の脚のラインを強調しており、いつも着ている真っ黒なコートの腕には、エンブレムが縫い付けられています。母の仕事着です。私は母が一体何をしているひとなのか知りません。でも私は知っています。ときたま夜遅く帰ってくる母のブロンドの髪に、拭い忘れたのか少量の赤黒い飛沫がこびりついていることを。ただいま、ごめんね、と母は言います。私の好きだった石けんの代わりに、今ではつんと鼻をつくような香水の香りがするようになりました。そんなときは決まって、私の目頭は熱くなるのです。何故だかは分かりません。母がなぜ私に謝るのかも、その瞳が果たして私を映しているかさえも分かりません。母は今日も仕事が忙しいようです。


 ザンザスさんというひとは、母の上司でありました。会ったことはありませんが、とても素敵な方だと聞きます。血のように紅いの瞳なのだと、疲れ気味の母は微笑みました。私は冷えたレモネードを一口飲みました。



 うだるような暑さとは、このことを言うのでしょうか。それなのに私はというと、さっきからひどく震えを感じておりました。決して体が冷えるわけではありません。その証拠に、私の背中には生温かい汗が幾筋にも分かれて滝をつくっていました。ああ、と女のひとの艶めかしい嬌声が、壊れたカセットテープのように延々続いています。私は中を覗いたことを後悔しました。そこには母がいたからです。薄暗い照明と仰向けの体勢のせいで顔までは見えませんでしたが、あれは確かに母です。月の光を受けてあんなにきらきら輝くブロンドを、私は他に知りません。母の上に覆い被さるようにしているのは、傷だらけの男でした。私はその光景を、何かに取り憑かれたかのように見続けていました。そのとき、男の眼がふとこちらを見ました。私はぎょっとしました。血です。その瞬間、私は血の色をした瞳を見たのです。皮肉にも、その血色の瞳は細くなった月を内に秘め、きらきらとまるでルビーのように輝いていました。私は吐き気を覚えました。それから後は、私はめちゃくちゃに広い家の中を走り抜け、庭も通り過ぎ、高級住宅(残念ながら私の家もまた、その内の一つなのです)が建ち並ぶ間を縫うように伸びる道へ飛び出しました。ぽつりぽつりとある外灯の道を、走っても走っても、先程見てしまった光景は脳裏に焼き付いて離れることはありません。それどころか、どんどん大きな影となって、私の後を追って来るのです。疲れ切ったことさえ忘れて立ち止まったところは、近所の公園でした。異常なほど呼吸が跳ね上がり、心臓が口から出そうな気がしました。目は見開かれ、ネグリジェは汗でぐっしょり濡れています。それから私は激しく嘔吐しました。げほげほと咳き込み、もうほとんど何も残っていない胃の中から、胃液だけが食道を通り、咽を逆流します。苦しくて生理的な涙が浮かびましたが、それよりも自分の中にあるこのぽっかりとしたような虚しさが何なのか分かりません。見ると、裸足で砂利とコンクリートを踏みしめたせいか、足は血で汚れ、惨めなほどボロボロでした。それを見ているとまた、あの男を思い出します。しかし悔しいことに、あの男の瞳の方が、綺麗な澄んだ血の色をしているのでした。あの男はザンザスさんだ、私は直感的にそう思いました。何より、血の色をした瞳がその証拠です。そして母は、ザンザスさんに抱かれていたのでした。それもきっと、今夜だけではありません。母が仕事で遅くなると言った日は、決まってザンザスさんと会ってセックスを重ねていたに違いありません。私がこうしている今でも、母は先程のように艶めかしい嬌声を上げ、ザンザスさんの背に縋っているのでしょう。もしくはもうセックスは終わってしまって、ベッドの中で余韻に浸りながら、楽しく小声でお喋りをしているのでしょうか。どちらにしろ、その中に私はいないのです。ザンザスさんの前での母の中に、私はいないのです。


 私はひとしきり胃液だけを吐き出すと、公園の水道で口をすすぎました。足は洗いませんでした。濡れた足で砂利の上を歩くことほど、苦痛なことはありません。下を向くとまた嘔吐感が込み上げてきましたが、もう私の中には出すものすらないようです。あるとすれば涙くらいでしょうか。嘔吐の苦しさからは解放された筈なのに、さっきから私の頬は塩辛くて生温かい水で濡れ続けていました。試しに水道の水で顔を洗ってみます。生憎タオルを持ち合わせていなかったので、ネグリジェの裾でごしごしと思い切り顔を拭きました(もちろん、いつもはやわらかいタオルで丁寧に押さえて水分を拭き取ります。今は特別です)。真っ白なネグリジェは、もう汗だか涙だか水だかでぐちゃぐちゃでした。とてもお金持ちの家の箱入り娘とは思えません。レイプされた後の娼婦もいいところです。走ったせいで火照った顔が水道水で冷やされた後なのに、どうしたことでしょう。また私の頬へ、あの生温かい水が伝ってゆきます。私は今度は手の甲で、目を擦って水を弾き飛ばそうとします。しかし、あまり効果はありませんでした。その水は後から後から、頬を伝います。肩でしていた呼吸がようやく少し落ち着いた頃、私はやっと、自分が泣いているのだと気付きました。それも、先程のように生理的な涙ではありません。私は悲しいのでしょうか、寂しいのでしょうか、それとも憎いのでしょうか。あの男が、ザンザスさんが。そして母が。今はいくら考えようとしても、思考が追い付いてきません。私は夜の公園で、ひたすら泣きました。まだかろうじて理性はあったのでしょうか、それともただ涙を流したかっただけだったのでしょうか。子供のように声を上げることなく、私は肩をわななかせ、地面にひどく大きな染みをつくりました。母はもうとっくに、私のものなんかではなかったのです。それでも私や父の前ではいつも通り笑っている母を思い出すと、突然私の中に、憎悪にも似た感情が生まれました。それは私から母を奪ったザンザスさんに対してよりも、遙かに深く、激しいものでした。母にも背徳感はある筈なのです(そう願いたいのです)。私は母にも、そしてそれを知らずにのうのうと過ごす優しい筈の父にも、ひどく怒りを覚えました。それがまた涙となって、地面の染みを広げてゆきます。母は私や父のことを、どう思っているのでしょう。母はよく私のことを好きだと言いますが、実は心の中では冷めた目で、私のことを見ているのではないでしょうか。何も知らないでいる私や父を、馬鹿にしているのではないでしょうか。私はこのときはっきりと、自分に誓いました。このことは絶対に誰にも言ってはならないのだと。私にはもう、何処にも縋るものはないように思えました。



「なあ、今度お前の娘に会わせろよ」
「嫌ぁよ。あなたちょっとロリコンの癖があるんですもの。あの子に目移りされちゃ堪らないわ」
「ばか、そんなことしねえよ」

ザンザスは隣で寝返りをうつ女を引き寄せるとキスをした。蕩けるようなキスに酔う彼女は、もう母親の顔はしていない。ザンザスは、先程細く開いた扉の隙間から覗いていた、この女そっくりの少女のことを言うべきか迷ったが、結局やめることにする。言ってしまったのでは面白くない。このぐずるような背徳的な関係を、まだもう少し続けていたいのだ。もっとも自分には特定の女がいないのだから、背徳を感じるとすればこの女だけなのだが。ザンザスは美しい蝶を手中に墜としたことと、今後のことを考え、にやりと不敵に笑った。

「どうしたのよ」
「何でもねえ。もう帰る」
「ねえ、明日は?」
「任務だ。今度のは少し長いからな。次は一週間後だ」

居心地のいいベッドから体を起こし、ザンザスはシャツに手を掛ける。女は名残惜しそうにその背中を見つめていた。そして後ろから腕を回してきたかと思えば

「ねえ、私のこと好きでしょ?」
「ああ」
「本当に?」
「本当だ」

ザンザスはネクタイを締めながら、振り向きざまにわざとリップ音を立てて軽くキスをした。そろそろ夜が明ける。



 私は公園のブランコに座って、一人星空を見上げていました。東の空が薄ぼんやりと白んできます。きい、と錆びたブランコが、寂しげな音を立てました。私は一度大きくブランコをこぐと、その勢いで地面に降り立ちました。長い間そこにいたのか、濡れて気持ちの悪かったネグリジェはすっかり乾いていました。

「帰らなくちゃ」

私はまた「よい子」を演じるため、涙の痕を袖で拭うと、家に向かって歩き始めました。もちろん気分が軽いはずがありません。それでもまた明日はやって来るのですから、私は元の「よい子」に戻らなくてはならないのです。家の中ではハイソックスとスリッパを履きますし、足に付いた泥さえ洗えば、あとは何とかなりそうです。母は今日も私に、笑っておはようのキスをするのでしょうか。ザンザスさんとキスしたり、彼のものを咥えたその唇で。



 私の頭上を、小鳥が飛んでいきます。もうすぐ朝です。



嗚呼麗しの母君よ


(2009/2/10)


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