月桜鬼 第一部
□泡沫(うたかた)の日々
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「男所帯で何かと不躾(ぶしつけ)で不自由でしょう。
困った事はありませんか?」
ここに来てから半月程経ったある日の午後、巡察が一段落した原田と永倉と藤堂の三人が、
いのりと火鉢の側でお茶をしていると、山南が優しく話しかけてきた。
とある薬の研究にこだわる山南を多少警戒し、いのりをあまり近づけさせたくない原田達だったが、
当の少女は皆の心配をよそに、嬉しそうに笑顔で答える。
「いいえ、皆さん本当に良くしてくださっていますので、毎日がとても楽しいです」
ふと山南の手にある、たくさんの書物に気付き、いのりは興味深そうに目を輝かせた。
「・・・夏目君は、本が好きなんですね」
「はい!大好きです!!」
無邪気に即答する少女。
嬉しい答えに思わず山南から笑みがこぼれる。
「また、新しい本が私の部屋にあります。
よろしければ読みますか?お貸ししますよ?」
「え!?本当ですか!?ありがとうございます」
全身で喜ぶいのりの姿を、山南は穏やかに見つめる。
原田達に一礼すると、いのりは山南の後を追って部屋を出て行ってしまった。
残された三人は思わず顔を見合わせる。
「おいおい・・・大丈夫なのか?」
「・・・・さあ・・・・」
戸惑う永倉と藤堂を残し、原田はすっと立ち上がり近くにいた平隊士に何か指示すると、
自分も山南の部屋へと向かった。
* * * *
山南の部屋に近づくにつれ、いのりは違和感を感じた。
山南の部屋があるであろう先から、不穏な空気が微かだが確実に流れ込んでくる。
自然と足取りが重くなるが、前を歩く山南にそれとは気付かれないよう、必死に後を追う。
「こちらですよ」
にこやかに振り返り、山南が一室の襖を開ける。
一瞬入るのを躊躇(ためら)ったが、目に飛び込んだ蔵書の数に、いのりの不安はかき消された。
「す・・・凄いです!あ!これ、八犬伝ですよね!全巻あるんですか!?凄いです!
こっちは三国志!雨月物語に、ああ、浮世風呂まで・・・
これは宇治拾遺物語ですね!!」
いのりは興奮気味に、棚においてある端から端までの山南の蔵書を手に取る。
その姿に山南はつい笑みをこぼす。
ここにいる者は、あまり書物に興味がなく、山南と話が合う者がいないのだ。
驚いた事に、いのりは漢詩も読めるようだ。
「良いですよ、私は全て読んでしまいましたから、好きなだけ持って行ってください」
山南の寛大な言葉に大喜びのいのりは、顔を紅潮させ勢い良く頭を下げる。
「本当ですか!?有り難うございます!嬉しいです!あの・・・本当に嬉しいです!!」
「いいえ、こちらこそ、それほど喜んでくれるとは・・・・嬉しいです。
ほら、これはどうです?なかなか面白かったですよ」
盛り上がる二人の戯作談義。
しかし、急にいのりが不安そうな瞳で山南を見上げた。
「あの・・・山南さんは・・・・私が書物を読む事をどうお考えですか?」
「どうとは??」
「・・・・・以前、お知り合いになった漢学の塾の先生が、本を貸してくださると言うので、訪れたのですが・・・・。
そこにいた書生の方に、
『女如きが学問に携(たずさ)わろうなど、生意気だ!
女は精々(せいぜい)、料理と裁縫と男を立てるという事を覚えておけば良いのだ。
大体、お前に学があった所で、何の役に立つ?』
と言われてしまって・・・・。」
「だから、そのような形(なり)をしているのですか??」
いのりはうつむき答えない。
少女は髪も結わず、残腹頭(ざんばらあたま)で髪を二つに結い紐で分け、
年頃の娘の振り袖姿ではなく男袴を履いている。
「巫女の時もこのような姿で、仕事をしていましたから、こちらの方が楽なんです」
と言って笑っていたが、やはり理由があったのか。
もちろんそれだけが理由ではないであろうが、山南は少女のひたむきな学問への姿勢に、つい感銘を受けた。
「 夏目君は、そうまでしてまで学びたかったのですね・・・・」
「私は・・・・知らない事が多すぎます。
私の問いに答えてくれる書物はありませんが、無知は無力だと父に教えられましたから・・・・」
真摯な少女の瞳に健気さを感じ、山南はこの少女の力になってやりたいと、自然と好意を持った。
「学問に男女は関係ありません。
あるのは情熱があるかないかです。男であっても猿に説法を解いても仕方ありません。
どうぞ、気の済むまで学びなさい。いつでもお手伝いいたしますよ」
山南の言葉に頬を染め、いのりは目を輝かせる。
「有り難うございます!!」
何度も頭を下げ、嬉しそうないのりの姿に山南は目を細める。
「山南さん、ちょっといいかい?」
襖の外からかけられた声に寄って二人の話は中断された。
原田の声に山南が「どうぞ」と返答しつつ襖を開けた。
ぬっと部屋に顔を突っ込んだ原田が、山南に用件を伝える。
「盛り上がってるところをすまねえけど、山南さん。土方さんが探してたぜ・・・。」
山南は原田の顔をちらりと見たが、特に何も言わずいのりを振り返った。
「すみませんね、夏目君。ちょっと用事ができた様なので・・・・」
「いえ!こちらこそお忙しいのに・・・・すみません」
恐縮する少女にふっと笑顔を向けると
「これとこれと・・・・あとこれ。どうぞ持って行ってください。返却はいつでも結構ですよ」
と三冊ばかりの本をいのりに手渡す。
「ありがとうございます!大切に読ませていただきますね」
嬉しそうに満面の笑みを浮かべるいのりを促し、三人とも部屋を出る。
土方の元へ向かう山南の後ろ姿が小さくなるのを見届けると、
原田はいのりの背に合わせて少しかがむと、小さい声で訪ねた。
「おい・・・大丈夫だったか?」
幸せそうに本を抱え込んでいたいのりは、夢から覚めた様子できょとんと原田の顔を見返す。
「何がですか?何かあったんですか?」
のんびりとしたいのりの様子に、原田はふっと安心したように苦笑した。
「いや・・・・杞憂だったみたいだな」
いのりは不思議そうに小首をかしげながらも、歩き出した原田の後を追った。
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