とある鬼の昔話
□桜花
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* * * *
その日から、銀の温かな笑顔が恋しくて仕方ない。
里では厳しい父の顔、些細な過ちも許さぬという目付役の鋭い視線が、桜を押しつぶす。
あの光輝いていた外の世界を思うと、今自分のいる鬼の里の重苦しい暗さがどうしても我慢ならない。
「銀に逢いたい・・・・」
ただ、それだけだった。
それだけで充分だった・・・・。
桜はまた、妹の護衛役の少年に頼み、再びそっと里を抜け出した。
抜け出したは良いが、一体銀はどこで何をしているのか、桜には分からない。
人の里に近づく訳にもいかず、どうしようかと思案していたら、銀と出会ったあの桜の木を思いついた。
あそこにいれば、銀に逢えるかもしれないと思った。
高鳴る鼓動を伴い、急いで駆けつけてみると・・・・・・銀がいた。
嬉しくなり思わず側に行こうとするが、銀は桜の木の下で静かに座って、瞑想している所だった。
邪魔する訳にもいかず、瞑想が終わるまで少し離れた木の陰から、銀を見守った。
ふっと目を開け、桜の姿を捉えると、銀は嬉しそうに笑った。
「おう、桜・・・・・やっと来たか」
まるで自分を待っていてくれた様な口ぶりに、桜の胸が思わず弾む。
「銀・・・・・・」
銀の側に駆け寄り隣に座ろうとする桜を制し、銀は自分の来ていた羽織を脱いで、隣に敷いた。
「そのまま座ったら、その綺麗な振袖が汚れちまう」
桜は気にもしていなかったが、その心遣いが嬉しかった。
「いいの?銀の羽織が汚れてしまうわ」
「平気平気、俺は年がら年中、剣の修行で泥だらけだからな。
あ、この羽織は、この前洗ったばかりだから、大丈夫だ」
「ありがとう・・・・・」
くすくす笑って、桜は羽織の上に座った。
桜の笑顔に満足したように、銀も笑顔で返す。
「銀は道場で修行してるの?あの・・・・・この前の人達と・・・・・」
銀の事を知りたくて尋ねてみたが、男達の卑猥な笑みを思い出し、桜は軽く身震いした。
銀がいてくれなかったら、一体自分はどうなっていたのだろう・・・・。
「ん?ああ、俺は堅苦しい道場剣術はあまり好きじゃあないからな・・・・。
一応腕を買われて、城主様に道場を紹介されて通ってるけど、どうもしっくり来ないな・・・・。
俺の剣は大体が、実践で学んだものだ。
喧嘩殺法っていうか。師範に言わせりゃ、めちゃくちゃ剣術なのさ」
事も無げに言ってのける銀に、桜は銀らしいと、思わず笑ってしまった。
そして、改めて礼を言った。
「あのとき・・・・助けてくれて・・・・ありがとう」
「ん?・・・・・ああ、まあ・・・・な。別に・・・・・」
今までの闊達さが影を潜め、銀は顔をそらし口籠る。
その頬が微かに赤らんでいるのを見て、桜は銀の無骨な優しさに触れた気がした。
銀は自分の気恥ずかしさを拭うように、わざと話をそらした。
「そうだ、桜は甘いもの好きか?」
「甘いもの?ええ、好きよ」
「そうか、良かった。実はここへくる前、これを買って来たんだ。食うか?」
銀がごそごそと懐から出したのは、金平糖だった。
「いいの?」
「ああ、たりめーだ」
桜は指で、金平糖を数個つまむと、口に放り込んだ。
金平糖は徐々に口の中に溶けて、甘みが広がっていく。
桜は頭首の娘のため、食事はそれなりに豪勢で、甘味も色々食して来たが、
ともに食事をとるのは、鋭い目を光らせ渋い顔をした目付役や、寡黙で険しい顔の父などで、ちっとも美味しいと思った事はなかった。
しかし、この数個の金平糖は、今まで食べた物の中で一番甘く、幸せだと感じられた。
思わず顔がほころぶ。
その顔を見て、銀も口に金平糖を放り込み、同じように満ち足りた笑みを浮かべる。
二人で顔を合わせて、笑い合う。
幸せな時間だった。
* * * *
それから何度か、桜は目付役の目を盗んで、里を抜け出し銀に逢いにいった。
桜は自分の名を呼ぶ銀の声が大好きだった。
それまでは、自分の名前は嫌いで仕方なかった。
父や目付役が自分を名前で呼ぶ時は、いつも重々しく、堅苦しく、厳しく、冷たかった。
そして配下の鬼達は、桜を頭首の娘としか、女鬼としか呼ばない。
しかし、銀は違った。
いつも笑顔とともに、優しく、温かく、愛おしそうに名前を呼んでくれる。
その声を聞くと、ほっとする。
桜は、自分の名前がどんどん好きになっていった・・・・・。