小説置き場4

□淡い幻覚の中で
1ページ/1ページ

桜は咲かなかったはずだ。当たり前だ。卒業式と言えど、今は3月初めなのだ。そう、咲くはずがない。ないのだけれど。
微かに口を開いた佐野の目の前を、淡いピンクの何かが次々と舞い降りた。肩に落ちたそれは溶けず、手の甲に当たっても冷たくはない。ぶんぶんと首を振っても散るのはさっきまで零していた涙と髪に付いた花びらだけだった。相変わらず、匂いのない花吹雪は視界を染め上げている。理屈のわからない現象から正気を取り戻したのは、それに遮られつつある困ったような笑みと、斑な制服の黒だった。佐野の目からまた、ぽたぽたと水滴が落ちる。

「ごめんね」

目の前の口がさっきと同じ言葉を紡いだ。佐野は落ちそうになる膝を無理矢理伸ばし、声を出そうと唇を震わせた。手の中の細長い筒が歪む。

「私にはね、好きな人がいるの。それに、」

ちゃんと男の子が、好きだから。
そう言い切った彼女との間には、もう硬く分厚い壁がそびえ立っている気がした。一歩も近付くことのできない、圧倒的な圧迫感。
覚悟はしていた。そう、覚悟は。それでも現実を肌で感じると、私の心が直接突き破られるような痛みが走った。彼女は花吹雪の中踵を返す。小さくなる。見えなくなってしまう。
佐野はそれに手を伸ばした。もうきっと、二度と会うことはないのだろう。気持ち悪いと思われて、おしまいだった。そう、わかってはいたけれど。
この痛みからはきっと、逃れられないのだろう。


次の章へ
前の章へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ