小説置き場4
□終電3本前
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「で、どうして遅くなったのですか」
ほんのりと味噌汁の匂いが漂うリビングで彼の細白い背中が問いかけた。声のトーンは、かなり固い。糖分不足の脳みそが必死に理由を並べ立てる間、くつくつと味噌汁が煮立つ微かな音だけが響く。自分の脳みそが煮える錯覚を覚えた。
「………これには、深い訳が」
「LINEの一つも返せない訳とは、一体何なのでしょうか?」
これは怒っている。相当怒っている。素材の風味を大事にする人間が、味噌と出汁の香りが目の前で抜けていっている事に全く頓着していないからだ。下手な言い訳をしようものならこれから一週間、胃壁が毎日1mmずつ削られていくのだろう。瓶の胃薬がほしい。唾を飲み込み、口を開く。
「あのですね。職場で突発的に歓迎会が始まりまして、パソコンなぎ倒してどんちゃん」
「貴方の職種、電子機器入れてはだめな場所では?」
ひゅっと息が詰まる。彼の背中が燃えている。やばい。これはやばい。詰めていた息を諦めと共に吐き出した。
「……ほんとはですね。職場に猫が迷い込みまして。みんなで二時間かけて捕獲してたんです」
「………?」
彼は振り返る。煮立った味噌汁のあぶくがちらりと見えた。
「それで、あの、みんなペット禁止だからって俺に」
スーツのポケットを開けてみせる。にゃーと鳴いたそれを、同居人は目を丸くして見つめていた。
「……うちも、ペット禁止なのでは?」
「そこはまぁ、上手く隠すから」