小説置き場

□水羊羹
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ドアノブに手をかけようとした所で、手のひらが血まみれなことに気が付いた。
いつものように、刺して、潰して、ぐちゃぐちゃにして遊んできたから。
楽しくて、夢中で刻んでたらフリッピーと約束した時間になっていて、あわてて走ってきたんだっけ。
急いでるけど汚したらだめだな、と軍服の裾で手を拭ったけどどこもべとべとに汚れていて、あとでフリッピーに言っておこうと思ってまだちょっとぬるぬるする手でドアノブを掴む。
おれが出かけてるから鍵なんてかかってないドアを一気に開いて中に入ると、玄関マットのすぐ後ろ、もう一歩踏み出したらぶつかっていた位置にうっすらと微笑みを浮かべるフリッピーが立っていた。
驚いてくっと引きつったような声が出てびくん、と体が跳ねる。

「…っただいま」
「おかえり」

慌てて言ったおれに対してフリッピーは笑顔を崩さずにそれだけ言うと急におれの襟首を引っ掴みそれきり無言でどこかに引きずっていった。
強引に引っ張られバランスを崩しかけて左右によろける。
たまに廊下の曲がり角に体のそこかしこをガツンとぶつけるけどそれでもフリッピーは意に介した風もなく進んでいく。

ずいぶん乱暴だけどもしかしておれが遅れたから怒ってるのかな。後でたくさん怒られるのかな。
考えると泣きそうになって、唇を噛んだ。
込み上げてくる涙を多分あざになるぶつけた所の痛みに集中して抑え必死でついて行くとあるドアの中に突然ほおり出されべちゃりと床に手をついた。
ツンと鼻に突くような塩素と石鹸の混ざったような匂いと柔らかいマットの手触りからしてどうやらここは風呂場みたいだ。
びっくりして閉じていた目を開けると予想通り脱衣所で、でも倒れた時におれを濡らしていた血がいっぱい飛び散ったみたいで部屋中に赤い色が付いている。
どうするんだろうとフリッピーに目を向けるといつのまにかしゃがみこんでいて、おれの服に手をかけていた。
体勢を整える暇もなく乱暴な手つきで服を脱がされる。
ろくな反抗もしなかったのですぐに裸にされ、風呂場に入れられた。
今度は突き飛ばされなかったけど、独特のひんやりした冷気に生肌をくすぐられてふるりと震え、冷たくなった足の裏が痛くて交互に足踏みさせる。
寒くて体を抱きしめたままフリッピーを見ているとおれの服をほおりこんだ洗濯機を何やら操作して動かしてからおれの方に寄ってきて、風呂場のドアを後ろ手でバタンと閉めて片手で鍵をかけた。
それからよいしょ、と腕まくりをしたあとシャワーの蛇口を捻って首を持ち上げ、おれを風呂の椅子に座らせて後ろから肩にお湯をかけた。
体中を伝っていくお湯があったかくて、気持ちよくて、おれはふわりと立ち上がった湯気の中で目を細める。

「目、つぶってて」

後ろから落ちてきた声に従って目をつぶると水の流れる音が頭の上に移動して、あたたかいお湯が降ってきた。
俺の顔と頭に付いてた血が溶けて床に落ちて遊ぶときの楽しそうな匂いがむわっと立ち上ってほっぺたがゆるむ。
はい、いいよと言われて目を開けた時にはもうおれを染めていた血がなくなっていて、白い床の端っこにちょっと残ってるだけだった。
今日はもうちょっと遊びたかった。せめてあの腕を指の又から裂いてひらひらさせて振り回したかった。
なぜか悔しくなって、お湯に混じる色の薄まった血を足のうらでピチャピチャ叩いて、散らしてやった。
排水溝にほとんど色のないお湯が流れていくのを眺めていると突然背中に何かが触れた。

「ひっ!?」
「大丈夫、ただの泡だよ」

くすくす笑う声と一緒に、あったかくてぬめる手がすくんだ肩にのぼる。
その手はそのままお腹に落ちてくるくると円を描き、もう一つの手は右腕に止まってもぞもぞ動く。

「ん……」

体を滑るふわふわぬるぬるした手がくすぐったくて身をよじるけど、逃げようとすると首を固定されるから、じっとしてるしかない。
自分で洗う、と言ってもフリッピーはきいてくれなかった。
体中泡だらけになった頃、背中を洗いながらようやくフリッピーがきいてきた。

「今日は何をしてきたの?」
「別に。ただ散歩して遊んできただけだ」
「ふーん……じゃあ誰かに会ったりした?」
「ん、途中でスプレンディドに絡まれた」

ピタリと背中をこする手が止まる。
変に思って振り向こうとすると両手の指先で頬を挟まれて頭を固定される。

「何かされた?」
「ん、ちゅーされた」

頭が動かせなくて顔はのぞけなかったけど語調は変わらなくて正直に答えただけなのに、後ろのフリッピーがピシリ、と固まった。

「べろちゅー?」

妙にかすれた声にコクリとうなずく。
最近あいつに会うと必ずされるんだ。
何が楽しいのかわからないけど。
すると突然乱暴に前髪を掴まれ、頭を持ち上げられる。
上を向かされて半開きになった口を顎を引かれてさらに開けられる。
そして抵抗する間もなく泡のたっぷり付いたスポンジを口の中にねじ込まれた。

「───っ!!」


苦い、苦い、苦い、苦い苦い!!


口と鼻いっぱいに溢れる石鹸の匂いと独特の嫌な苦味にばたばたともがくがスポンジは容赦なくおれの口内をかき回していく。
舌を中心に頬の内側や舌裏の粘膜、歯列、上顎をゴシゴシと擦られて苦味を口中にすり込まれお湯で濡れた頬に生理的な涙が落ちる。
目の前で揺れる泡だらけの腕を必死に掴み引き抜こうとすると喉の奥を突かれ、込み上がった吐き気にぎゅっと爪を立てる。
おれの爪がぐりぐりと食い込んでいるはずなのに動じるそぶりもなく動いていた手はふいに抜かれておれはすぐに手を離し蛇口を捻って水を出し、大きく開けた口に当てた。
指で口の中を擦ると大きく開けた口の中からお湯と混じった白い泡がたくさん出てくる。
それでも吐き気のするような石鹸の匂いと苦味は取れなくて自分の舌をひっつかんでお湯にさらしごしごしと洗った。

「ひっ、ぐ、うぅ…っ」

ぽろぽろ涙が出てきてはお湯に混じって流れていく。

「うっ…うぇっ、ひぐ…っ」

口に溜まっては零れていくお湯のおかげでどんどん色の付いた所の味と匂いはなくなっていくけど、染み付いたものは取れない。
蛇口をさらに捻って顔に当たるお湯が痛いほど出して、口の中で掻き出すように指を動かす。
ずっとこすり続けてやっと鼻で息ができるようになった時、急に肩を叩かれて体がびくんと跳ねて、さっきまでフリッピーの気配が消えていた事に気がついた。
何をされるのか怖かったけどおずおずと振り返る。
すると、唇に柔らかいものが押し付けられた。
それは器用におれの口をこじあけ、何かを押し込んですぐに離れた。
スプレンディドのやるように苦しくなるまで口の中を舐め回さずに終わったそれにちょっと驚いたあと、口の中のものがクッキーであることがわかって半ば無意識に噛み砕く。
さく、さくと少し水を含んだクッキーが口の中でばらけるたびチョコレートの甘みが苦みを殺して、甘くていい匂いが石鹸の匂いを消していく。
ごくん、と飲み込んで目の前のフリッピーを見上げるとしゃがみこんだフリッピーがおれの頭を抱えて、耳元で言った。

「ごめんね、フリッピー。でもあいつが触れたなんてどうしても嫌だったんだよ。酷いことしてごめんね。」

「うん、いいよ。フリッピーが嫌なら、いい」

にっこり笑って返すとフリッピーはおれの頭に手を回したまま俺の唇に唇でちゅっと触って、立ち上がり今度は手で泡立てた泡でおれの髪の毛を洗い始めた。




「ねぇ、運動してお腹すいたでしょ。おやついっぱい用意してあるからね。お風呂上がったら僕と食べようね」


こくん、と頷くとフリッピーは背中で嬉しそうに笑って、おれも目を細めて笑った。
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