小説置き場

□オニオングラタンスープ
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あったかい。
周りを満たす羊水と体を包む赤く滑らかな肉。
まるで重力が存在しないかのように浮かんだ体。
微かに響く誰かの鼓動。
胎児のようにうずくまり子宮っていうのはきっとこんな所だろうなと思いながら上を見上げる。
そこには小さくすぼまった出口があるが、きっとそこは開くことはないのだろう。
ここはきっと、俺の消える場所だ。



何の前触れもなくフリッピーに呼び出されて目を開くと、リビングに真顔のフリッピーが立っていた。
こういう時は必ず中の世界を選ぶんだが、と怪訝に思い首を傾げるうちにフリッピーがこっちに歩み寄り、いきなり俺に抱き付いて耳元で囁いた。

「覚醒、一人に戻ろう」

いきなり突き出されたその言葉の意味を、真意を理解するまえにフリッピーの肋骨ががぱりと開き、軍人と密着していた俺の体はばっくりと喰われた。
背中にめり込んだ肋骨に肺を突き破られ口から血を垂らしながら呆然と見つめるうちに中からアメーバ状の赤黒い液体がどろりと溢れ落ち、ごぽり、ごぽりと音を立てながら着実に俺を飲み込んでいく。
きっとこれがフリッピーの《取り込む》イメージなんだろう。
ぼんやり思って、背中を走る激痛と肌を滑る生温いそれに顔をしかめる。
その内にズブズブと肩が、足が、最後に頭がトプンと沈み、そこで俺の意識はプツリと切れた。
俺とフリッピーにしか見えない、[フリッピー]の中だけでの出来事。
抵抗など、できるはずがなかった。



あの後、気がついたらここに浮かんでいた。
軍服をはぎ取られて胎児のように縮こまり、生温い水の中に浮いて腹に繋がったへその緒のようなものから俺の人格そのものを溶かされ吸収されながら。
おそらくここは俺が表のフリッピーと統合され、本当の『フリッピー』となる場所だ。
皮肉にも子宮に近い形なのはきっと、俺の生きてきた時間を巻き戻しほつれを直して取り込むため。
統合と言ってもそれは多分吸収に近いのだろう。
きっとフリッピーはそれを望んでいる。
確信はないけど、消されるってことは何となくわかる。
それは今有る俺の心も意志も全てがなくなることで、残るのは存在の記憶だけ。
この意思も思考も、全部。



曲げていた腕を伸ばして膝を抱え込む。
動いたことでできた波紋が全身に伝わり、視界が揺れた。
さっきよりも薄れている感覚にさらに自身が消えていることを思い知らされる。
俺は唇を噛み締め俯いた。
自分の生の体が見える。
これも仮初めのものなんだ、と悲しくて笑った。
俺は親から生まれた訳でも自分の肉体が有るわけでもないのだ。
初めて上司に犯された夜の精液と初めて殺した現地の女の返り血。
それから初めて自分のミスで殺した部下の体内から俺は生まれた。
自分の体もなく、ただの機能として。
所詮無理なことだったんだ。
他人の体で人を愛するなんて。
俺は表を守るためだけにできた、ただの自己防衛機能。人格なんて持ってはいけなかったんだ。
俺の存在に、もう意味なんてなかった。
それなら俺は、淘汰されて然るべきものだったんだろう。
例えどんなに大切なものを抱えていても。


そっと手を伸ばし俺を包み込んでいるなめらかな肉の表面に触れてみた。
柔らかく温かい血より淡い色の粘膜。
さする手を止め軽く押してみると弾力があり手を押し返してくる。
しばらくふにふにといじっていると臍帯のような血管のより集まったようなものが伸びてきて警告するようにゆるゆると手首に巻き付いてきた。
それに従い手を元の位置に戻すとそれはするするとほぐれ壁の中に消えていく。
ぼんやりとそれを見送り膝を抱き直すと浮かんできたのはあいつの事だった。
失敗ばかりするくせに底抜けに明るい、自称ヒーロー。
化物みたいに硬くて、強くて。
俺が本気で戦っても死ななくて。俺の攻撃を悠々と避けながらいつも吐き気がするような愛の言葉を繰り返していた。
少し気恥ずかしくて言えなかったけど俺はずっとそばにいてくれたあいつのことが大好きだった。
でも、それも今日で終わり。
今から俺は、何も伝えられずに消えてしまう。
それはとても寂しいけど、フリッピーの意志なら仕方がない。



ゆるゆると分解される感触がさらに広がり、目を閉じて今有る体を確かめるように強く膝を抱く。
いつもより遥かに鈍い感覚にとろりと溶け始めた思考。
ゆらゆらと揺れる視界に酔い、ゆっくりと混沌の中へ沈んでいく。
その途中、走馬灯のような夢の狭間を漂う中でぽつりと触れたものがあった。
そっと中を覗いた途端、視界に青が広がり一つの単語が浮かび上がった。











スプレンディド。












頭の中で音にすると同時に無意識に漏れた声にならない声は俺の頭の中で確固たる質感を持ち薄れかけていた意識を一気に引き戻した。
震える唇でもう一度呟くとその声は羊水に満たされた俺の肺に残っていた小さな泡になって目の前でゆっくりと浮かんでいく。
胸の中に湧き上がる何かの感情にゆっくりと目を見開いて何も着ていないそこをわしづかみ、自分の耳にすら聞こえないと、無駄なだけだとわかっていてもそれでも止められなくて噛みしめるように何度も何度も繰り返し名前を呼び愛してると叫ぶ。
ああ、こうなる前に言ってやればかった。
大好きなのに。大好きだったのに。
想いながらそっと目を閉じると、そこで俺は自分の両目から涙が溢れていることに気づいた。
目を開けるとそれはすぐに羊水に溶け、混ざり合って消える。
ああ、俺はあいつを恋しがって泣いているのか。
気づいた途端押し込めていた感情が溢れ出し、一気にはじけた。
頭を抱えて見えない涙を流し声にならない声で何度も叫ぶ。




スプレンディド!スプレンディド!スプレンディド!スプレンディド!

 


凄まじい感情の波に耐えきれず周りの粘膜に爪を立てて引っ掻いて喚き、思い切り噛み付いて歯を立てる。
ここからでたくて、もう一度会いたくて、俺は泣きながら必死で粘膜に食らいつき引きちぎろうと頭を振り乱す。
ほどなくしてフリッピーの意識が異常を感じ取ったのかさっきの臍帯が大量に湧き出して体中に絡みつき体の自由を奪う。
それでもなお身をよじり口を開け音の出ない喉から感情を垂れ流す俺にこれでは抑えきれないと判断したのか俺の中にフリッピーの意識がへその緒を通じてどろどろと流れ込み、俺を薄れさせていった。
急速に増えていくどうしようもない喪失感にさらに涙を溢れさせもうほとんど動かない体をひくひくと動かす。
これで本当に消えてしまうという絶望にも似た感覚が体中に染み渡り、それも一緒になくなっていった。




なんて悲しい終わり方。
ひと一人満足に愛することもできなくて。
俺は一体なんだったんだ?
もやのかかった疑問が浮いては潰されて、飲み込まれていく。
消えていく思考の残滓をどうにか寄せ集めて作った最後の言葉。
ごめんな、さよならだ、スプレンディド
ずっと、ずっと、あいしてる








ぼやけて消えていく俺の視界に最後に映ったものは大好きな青ではなく赤い肉の色と意識の奥に浮かぶ笑みに歪んだフリッピーの唇だった。
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