小説置き場

□あんみつ
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そっとドアに近付くと水の音がする。飛び回る反射して部屋の壁や天井に淡い緑の光を撒き散らす。
それはすいすいと軽やかに足をはためかせて泳ぎ回るとふいに水槽の真ん中でピタリと止まって上を見上げた。
急な水の動きについて行けなかった短い髪がぶわりと前にたなびいたあと彼の周りで水草のようにゆらゆら揺れる。
彼は顔にかかる髪を無造作に払うとそばにある窓から一筋差し込む茜色の光の中時折ぽこりと銀色の泡を吐き出しながら淡く輝くエメラルドグリーンの目をぱっちりと開いて宙へ向ける。
その様子はとても幻想的で私は今日もうっとりと見とれてしまった。


しばらくのあと気が付いていつもの通り大きくて透明なガラスの水槽をコンコンと叩くとフリッピーくんはさっと体を翻してこちらを向き全く無邪気ににこりと笑った。
首元にぱくぱくと開閉を繰り返すエラを付けて、耳の辺りから突き出したピンク色のヒレをひらひらとはためかせて、軍服からはみ出す肌の頬や手の甲の所々にまるで魚のような鱗を生やして。
その姿はまさしく尾を無くした人魚そのものだった。



フリッピーくんがなぜこうなったのかは、私は知らない。
でも彼はその前からどこか様子がおかしかったんだ。
毎日毎日ぶつぶつと何かを呟いて指先から血が滴るほど爪を噛みシーツにくるまってガタガタと震えて暮らしていた。
そばによると必死にしがみついて過呼吸になるまで泣きじゃくり続ける。
家事など一切しなくなった彼の世話をするために私は毎日彼の家に通っていた。
そんなある日、彼はしばらく見せなかった笑顔で前もって買っておいたらしい大きな水槽にたくさんの水を張り私の目の前で飛び込んだんだ。
私は必死で引きずり出そうとしたがその度に彼は自らの舌を噛みちぎって死んでしまう。
私がしぶしぶ諦めた時にはまだエラも鰭もなくただ水の中で丸まって浮かぶだけで数分毎に水槽の縁に腕をかけてひいひいと荒い息をしていたし、その時にはお腹すいただとか思ったより苦しいですねだとか普通に言葉も話していた。
それから毎日食事や水替えに来ていると不思議なことに気が付いた。
彼の耳がだんだん尖って透けてきて、首に半円の切れ目が入りそこがピンク色に染まってきたんだ。
潜水する時間も日に日に長くなり、言葉も話さなくなっていく。
体が変化するにつれてごはんも自分からは要求しなくなってきたので私は毎日毎日彼の家に通っていたがだんだん面倒になって彼の息継ぎが二時間おきぐらいになり彼の体が所々変色しひび割れて首の切れ目がぱくぱく動くようになってきた頃に水槽ごと私の家に移した。
水のたっぷり入ったガラス張りの透明な水槽を抱え込んで飛んでいったため彼はキィキィ鳴きながら怯えていたが、私の家に着くと途端に黙って上機嫌で水を掻き出した。


それからしばらくして首元でぱくぱくするだけだった鰓が完全に機能するようになり、彼が息継ぎに上がってくることは無くなった。



私が彼にほほえみ返しふわりと飛び上がると私と同じ目線にいた彼もすうっと水を蹴って同じように浮かび上がる。
高い高い水槽の上から手をだすと頭を水面から出してまるで水族館の人に馴れたイルカのようにきゅいきゅい鳴きながら寄ってくる。
水槽の縁に間に水掻きの付いた指を引っかけてこちらを見上げてくる彼の頭を軽く撫でると気持ちよさそうに目を細めた。
ぬるま湯と同じくらいの温度にしてある水が手にまとわりついて気持ち悪い。
耳の辺りに生えたひれに突き刺さって揺れるピアスを取ろうとするといつものようにひどく抵抗されたので千切れる前に手を離しその間水槽の縁に乗せていたおぼんからクッキーを一枚取って彼の口に寄せると私の手から逃れるために少し開けていた距離を詰めて嬉しそうに食い付いた。
自分の手は使わずに私の手から直接かぶりつく。
瞬く間に一枚食べ終えるともっと、とでもいうように私に目を向ける。
お応えしてもう一枚差し出すとさっきよりも大きな口で頬張り、とても幸せそうな顔をして飲み込んだ。



クッキーだけの食事が終わると彼はまた水の中に沈みこみ同じ所を飽きもせずにぐるぐると泳ぎ回っていた。
私はそんな彼に苦い笑みを浮かべ洗い物をしようとキッチンへ向かった。
彼は言葉を全く話さなくなった日からチョコチップクッキーしか食べていない。
他の物を食べさせようとするといやいやと首を振りとぷんと水の中に沈み込んでしまう。
前にリゾットを無理矢理口に押し込もうとしたときには底に座り込んで五時間もへそを曲げていたっけか。
どうしてクッキーだけで生きられるんだろう。本当に不思議だ。
まあ、私もクッキー一枚あれば半年くらい生きられてしまうが。
お皿を拭きながら他愛もないことを考えて自分用に作ったオムライスの残りを冷蔵庫に入れる。
それからまた彼の所へ戻った。
私が家事をしているうちに眠くなってしまったらしく、彼は手の甲に鱗の生えた腕を縮め足を畳んで胎児のように丸くなっていた。
ぷかぷかと浮かぶ様がそれに輪をかけている。
安らいだ寝顔が昔の裏の彼の死に顔を思い起こさせ、ちくんと胸が痛んだ。



彼が水に飛び込んでからというもの私は一度も裏の彼を見ていない。
私を見上げてくるのはいつだって表の方だ。
多分変質しすぎた表の彼の心に耐えられず、消えてしまったのだろう。
今裏の彼が存在していたらきっともう少し違っていただろうに、と思いあどけない顔で眠りこけるフリッピーくんの体を見上げる。
きっと彼はこうなりたかったんじゃなくて不安も恐怖も何もない所に行きたかったんじゃないだろうか。
胎児のようにぬるま湯の中で守られて。
裏の彼は表の彼を守っていたようだけどそれでは足りなかったらしい。
これは何もかもから逃げ出して、何にも考えないで生きていくことを強く望んだ結果なのだろう。
現実逃避以外の何物でもない。
全く、わがままもいいとこだ。
私もなんで彼の世話をするのだろう。
目下、それが一番の疑問だ。
ただ、彼の姿が余りにも愛らしく優美なことがきっと大きな要因なのだが。



私はまた軽くため息をつきそばにあったソファに座って、彼を驚かさないように音量を極力下げたテレビを付けた。
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