小説置き場

□寒天
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フリッピーくんが水の中に住み始めてから、3ヶ月が過ぎた。


相変わらず彼は水中で毎日を過ごしている。緩やかに水を掻き、その身に水面の揺らぎを映した美しい網をまとまわせながら広いとは言えない水槽の中をすいすいと泳ぎ回っている。
変わったことと言えば、彼の体がさらに魚に近付いたということか。
彼の目は半透明の膜を纏わせ純粋な感情の光を映すだけになった。柔らかな皮膚を残していた足は下の方からくっつき始め、ほぼ緑色の鱗に覆われていて動くたび鈍く硬質な照り返しを私の目に届けるのだ。
どうして足が見えているのか。それはいつからか彼はズボンやその他足を覆う物を嫌がるようになったからだ。
私としては彼のひらめく長い軍服から
その、大事な所がぎりぎり見えるか見えないという状況は本当にやめてほしかったのだが、彼は全くきいてくれなかった。今ではもうそこは鱗の中にしまわれているらしいけれど。
それならばと無理矢理履かせてもいつのまにかべしょべしょに濡れた哀れなズボンが水槽前に打ち捨てられていたのだ。今は妥協して生成りのワンピースのみを身に纏ってくれている。


それから、水槽の内装も整えた。
砂利のかわりに浜辺から取ってきた柔らかな砂を敷き詰めて、彼が丸まってすっぽり入れるくらいの、横にした卵のような形をした小さな家を入れた。
シーツは水中でわだかまってゆらゆらとたゆたい、すっかり彼の遊び道具になってしまっている。
私からのプレゼントで満ちたその水槽は改めて見ると本当に巨大な熱帯魚を飼育しているようだと思わず苦笑がこぼれた。


彼と触れ合う時は腕に力を込めて血流をせき止める。本当はこの状態でいるのは嫌だけれど(うっかり顔なんか触ると死体のようでぎょっとする)、前にそのまま抱き上げてしまい軽い火傷をさせてしまったからしょうがない。彼は何も気にせず腕に飛びつき、ぴぃぴぃ鳴いて甘噛みをしている。豪奢に広がる尾ひれで楽しげに水を叩き、私を見上げた。
これが数ヶ月前は立派に人間だったなんて。私は彼を見下ろし、静かに頭を撫でた。


いつものように食事の支度をしていると、何かが耳を掠めた。何だろう。それはどうやら彼のいる部屋からのようだ。火を止めてトングを置き、足を運ぶ。高く透き通ったそれは近付くたびに強くなっていく。扉を開いた瞬間、私は思わず立ち止まった。
水槽に浮かぶ彼は目を閉じ、泡一つ出さず唇を動かしていた。そこから響き渡るのは賛美歌のような美しい旋律。水中で紡がれるそれは不思議な響きを纏い、私の耳に触れては溶けていく。
もしかしたら彼は見た目通り、その昔声と容姿で船乗りを惑わせたといわれる美しくも残酷な化け物になってしまうのか。哀れに藻掻き苦しんだ人間の殻を綺麗に脱ぎ捨てて。そんな妄想が渦を巻き、じわりと汗が滲む。
彼はいつの間にかガラスの向こう側に水かきの付いた手をそっと重ねて笑っていた。手のひらに伝わるのは、無機質なガラスの温度だけ。蕩けるように笑んだ彼の顔を見て、私は自分の頬が上に引きつるのを感じた。


彼を水から出す。
その思考に取り憑かれたのはあの歌を聴いてからだ。本能的に人間との相違を感じてしまった。強い思い込みにこの狂った街の神樹様が反応した一過性のものだと思ったら。彼は本当に引き返せない所まで行ってしまっているのではないか。水から出せば呪いが解けるのではないか。あの日以来、私の頭を埋め尽くしているそれを実行に移すまでには、数日かかった。


いつも通り水槽を覗き込んで彼を呼ぶ。すると揺らぐ水面から顔の上半分がひょこりと現れ、数度まばたきをして私を見上げたあと、ざぶりと音を立てて胸まで水から上がった。眼球の半分を覆っていた透明な保護膜のようなものを引っ込めると、丸く黒のかかった緑灰色の瞳をにこっと細める。
顔自体はかわいいのだがどうにも化物じみていて、背中が微かに粟立った。
私は作った笑みを返すと前触れなく彼に手を伸ばし、脇の下に手をいれて一気に引き上げた。
ざぶり、彼の体温に合わせた冷たくない水が全身に降りかかり、私の服と床を濡らす。
びちびちと暴れる尾鰭からは微かに魚特有の生臭い匂いがした。


硬いフローリングに寝かされた彼は呼吸の仕方を忘れてしまったようにもがき、目を見開いて口を開閉させ、震える両手で喉元に絡みついた何かをかきむしるような動作をする。
びちびちとせわしなく跳ねる体と相まって岸に打ち上げられた魚のようだ。
妙に冷静に観察しながら覆い被さり、ひくひくと狂ったように蠢く鰓を潰れない程度に押さえ、舌を突き出し悶える彼に口を付け吸い込んで一回。口を離して二回。吸い込んで三回。肺から逆流した水を吐かせつつ息を吹き込む。
引っ掻いてくる手を押さえつけながら根気よく繰り返しているとやっと地上での呼吸を思い出したのか、口を離しても自ら息を吸うようになったので両手を離し自由にしてやった。しばらく仰向けで浅い呼吸を繰り返していた彼はびくりと大きく痙攣するとごぶりと音を立てて空気と共に水を吐き出し、それからゆっくりと体を起こした。

「フリッピー…くん?」

床に手のひらを付き上体を持ち上げた彼は、濡れて貼り付いた前髪の隙間から凄まじい目で私を睨み上げる。思わず身を引いた私の前で、彼はかぱりと口を開いた。
瞬間、凄まじい音波が私の鼓膜をぶん殴った。ような気がした。
最初は音だと思ったそれは感情の塊を映した肉声だった。人間ではありえない響きを孕み繰り返されるそれは、辛うじて意味のある言葉として聞き取れるものだった。

かえせ かえして はやく はやく

聞いているだけで頭が割れそうに痛む。並の住人であればとっくに弾け飛んでいるだろう。声というよりは感情を衝撃としてぶつけるようなそれは、彼がもう人間ではなく別のものになってしまったことを理屈ではなく知らしめるものだった。
どんな魔法かどんな奇跡か。はたまた呪いの成れ果てなのか。考えても仕方がないと目を閉じる。

「わかったよ。返してあげよう」

零すように言うと途端にぱくりと口を閉じた彼を抱え上げ、水槽に戻す。
早々に家の中に潜り込んでしまった彼に呟きかける。

「君はもう、戻ってはこないんだね」

尾ひれも見えないその穴からはもちろん返答などない。深く息を吐く。
失ってしまった彼の信頼を取り戻すのにどのくらいかかるだろうか。きっと、しばらくはご飯も食べてはくれないだろう。私を見るなり家の中に飛び込んでしまうだろう。だけれども、もうどのくらいかかっても構わない。彼との生活はまだまだ続くらしいのだから。

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