小説置き場2

□Clear Elegy
1ページ/2ページ

 透明な液体で満たされた浴槽の縁に腕と顎を乗せて中を覗き込み、水面に映る自分の顔に向かってゆっくりと手を伸ばす。
 爪の間から肉が見えるほど深くかじられた自らの指先が体温より少し低い温度のお湯に触れた瞬間、ひた、と音なき音を立てて凪いだ水面にうっすらと波紋が広がり、透ける顔の像を揺らす。
 次いで手のひらまで沈ませるとぴちゃんと微かな音を立てて透明な水面がゆらゆらとゆらぎ、映りこんだ虚ろな瞳がばらばらに砕けちった。 
 柔らかな午後の太陽がスモークのかかった窓ガラスから滲み出てバスルームを照らし、乱された水の表面を白くちらちらと瞬かせる。
 切れ切れに飛び込んでくる白い光に淀んだ緑色の目を眩しげに細め、フリッピーは水中に沈めた手のひらを見つめながら何かを掴むようにゆっくりと握りしめ、確かめるように幾度か指を摺り合わせた後、する、と手を開いた。
 自らの作り出した波紋でゆらゆらと揺れる手のひらをぼんやりと見つめていた彼はゆっくりと瞬いて、唐突にナイフを取り出し刃先を水中に遊ばせ、もう片方の手首を躊躇無く切り裂いた。
 水中で銀色に光を照り返す刃先は動脈に届いたようで、裂け目からナイフを離すと同時に透明な水中にぶわっと赤い色が拡散される。
しばらくは溢れる端から次々と透明に飲まれ、混ざり合い、かき消されて微かに血色の残滓を漂わせる程度であったが飽和量を越えたのだろう、水中にたゆたう赤い色はそのままとろけ落ちて、水底へと溜まっていく。
 ここが真っ赤に染まる頃には、自分の命も溶けて無くなっているのだろう。
 役目を終えたナイフを水中で手放して広がる赤色をぼんやりと見つめながら、フリッピーは全身の力を抜いて浴槽の縁に頬をくっつけた。



言葉を飲み込む音がする。今日もまた、人を殺してしまった。手のひらについた跡が変色するほど強く握っていた血まみれのナイフから手を離し僕はひどいにおいのそこで息を止める。ぐちゃ、とナイフの落ちる音がする前に、両手で耳をふさいで俯き、目を伏せる。それから、僕は言葉を探して口を開く。この気持ちを少しでも吐き出そうと考えて、考えて、考えて、結局どろどろの感情だけを喉に流し込むんだ。ああにがい、にがい、苦しい、苦しい。酸素を求める肺の悲鳴に負けてひゅう、と息を吸うと同時に目から涙がぼとぼと落ちて子ども達の肉の間に染みていく。ああ、こんな量じゃ、僕の感情は溶かしきれない。僕は今日も泣きながら喉を掻き切って、失血で死んだ。



僕はもう疲れたんだ。 もう昨日の事さえ覚えているのが億劫で。 (きっと人殺しと自己嫌悪と自殺しかしてないのだろう。 茶渋の付いたティーカップが2つ出ていたから誰かが来たのかもしれないけれど、忘れてしまった。) 明日の事ももう思い出せなくて。 (おかしいことはわかってる。でも、僕はもう毎日が繰り返してるように感じるんだ。) 僕はただ、目を閉じた。







 ふいにかかった乱暴な声に目を開けて、ゆっくりと頭をもたげる。
 くらりと貧血独特の眩暈を押し殺してどうにか焦点を合わせるともうずいぶんと赤く染まった水面から白い手が二本突き出ていた。左手首にぱっくり開いた跡のついた、紛れもない僕の手。
 不思議な光景に何の反応もできないでいるうちに急に両手で頭を掴まれ、そのままずるりと水中に引きずりこまれた。
 ぴしゃんと水が顔を打つ感覚。続いて、膝がタイルから離れた後の、不思議な浮遊感。
 一瞬だけ通りすぎた血の匂いにきゅっと目を閉じるとそのまましばらく水の感触が肌を滑り続け、一瞬の空白の後ぽしゃん、と何かに落ちた感覚が全身を包む。
恐る恐る目を開くと、僕は深くて広い猫足のバスタブに落っこちて、もこもこの泡風呂の中に埋まっていた。
軍服もいつのまにか剥がれ落ちていて、残った布も泡の中で溶けるように消えていく。
裸になった心細さに自分の肩をを抱きすくめふと気配を感じて目線を横にやると、いつの間にか誰かが僕と目線が合うくらいの椅子に向かい合う形で座っていた。
そいつは僕にそっくりな顔で、不思議に透き通った金色の目で僕を見ていた。

「君は誰?」
「俺はずっと言ってきたのにお前は聞かなかった。聞こえないふりをして、勝手に嘆いて、苦しんでここまできたんだ」
「何を言っているの?」
「お前のことだよ、フリッピー」

吐き捨てるように言うと、苛立たしげに目を細める。
ああそうだ、思い出したよ。

「君はずっと僕を守っていたんだね」
「俺はお前を殺したくてたまらなかった。何のために俺がいたんだ?こんな終わり方なんてあんまりだ。思考力まで溶かしやがって」
「……」
「ここまできたらもう終わりだ。ごまかせない。お前も俺ももう、このまま何もできずに溶けて死ぬしかない」
「どうして僕が死んだら、君も死ぬの?」

僕は首を傾げて彼を見つめる。ぎろりと金色の鋭い目が僕の目を射抜いて、僕のずっとずっと後ろの真っ白い壁に突き刺さって溶けた。

「どうしてだって?」

言葉と共に首を掴まれた。
反射的に首元に手が伸びかけて、だらんと落ちた。

「てめえなんかに任せたくなかった、薬で抑え込みやがって、全部忘れたふりしやがって、聞こえないふりを、しやがって」

こちらを責めているはずなのに彼は顔を歪め血を吐くように苦しげに叫ぶ。
思い出した。
この街では死ぬことができないから、僕は僕の心を殺したんだ。
そのために一週間眠らずに、食事もせずに耐えて耐えて、心が半分死んだ頃にようやく手首を裂いたのだ。

「そうか」

首を絞められたまま見上げた壁一面覆うようなスクリーンには、困惑と絶望が半々になったような顔をしたスプレンディドが必死で何かを叫んでいる様子が大きく映し出されている。
それを見て、僕は顔をしかめ掠れる声で呟いた。

「あいつなんて大嫌い。いつも僕にくっつくくせに僕が一番辛いときにはいないんだ」
「お前はいつ、助けを求めた?聞こえるように声を上げたか?俺には聞こえなかった。一番近くにいた俺にすら。」

詰るように吐き捨てると彼はぱっと手を離した。
体が湯船に沈みごほごほ、張り付いた喉から息と音が漏れる。


「どうしてお前はそんなに執着するんだ?」
「わからない、でも」
「お前は生きたかった。どうしようもないくらいに、俺を作り出すくらいに」

そうなんだね、と問えばああそうだと端的な答えが 返ってくる。 知らなかった。 いや違う、ほんとは知ってたんだ。 僕の暗い暗い心の奥底に沈めて、僕の黒いどろどろの感情で隠してたんだ。 どんなに目を塞いでも、僕だけには隠し通せなかった。 ああ、ああ、今更知ったってもう遅い。 僕はもう、決めてしまったから。

「だって嫌いだもの。あの人の事も、僕の事も、この世界の全部が。苦しくて痛くってたまらないんだもの。みんな僕を置いて無くなってしまうんだ。僕は、それが一番怖い」

手のひらに掬った泡の塊をぽしゃりと握りつぶす。
 いつだって僕は空気の淀んだ薄暗い部屋で一つきりの鼓動をきいて、苦しみに耐えていたんだ。
 ヒーロー、と呼ぶ声はのどの奥に押し込めて、えずいて、吐瀉して、息がくるしくなって泣きながらしんだ。

「きっとみんな、消えてなくなっていくんだ。僕を置いて。こんなに苦しいなら、誰も救ってくれないなら、もう2度と起きたくない。君が、」

救ってくれればよかったのにね。続く言葉は手のひらに遮られた。
反射的に見上げた瞳は痛みに歪んでいた。

「俺はお前だ。自分じゃ自分を救えない。それはあいつの、」

ちらりと見上げ、ため息をこぼす。
それから言葉を促すように僕へと視線を送った。

「…あの人の、役目だった。」

「でもね、僕はほんとに決めたんだ。これでいいって。今更戻るつもりもないよ。」
「そうだろうな。よくわかってる。」

すっと立ち上がってこれまで座っていた椅子を踏み潰すと、決定を待つように僕を見つめる。
その瞳は水面のように頼りなく、ゆらゆらと揺れていた。

「おいで」

にっこりと笑い腕を広げて呼べば躊躇なく滑り込むように覚醒が湯船に落ちた。
身にまとっていた軍服はお湯に触れると同時に毛糸がほどけるように溶けていく。
最後までいじらしく残っていたドッグタグは僕が引っ張るとするりと切れて消えていった。
傷もないのに未だ血を溢れ出させる僕の手首と新しく血のにじみはじめた覚醒の手首を一緒に、もうほとんど泡が無くなったお湯に浸ける。
抱き合う僕らのどちらかが動く度、真っ白いお湯が底に沈んだ血液と混じり合い僕らの周りがピンク色に染まる。
じんわりと広がりはじめた淡い桃色を見つめて、覚醒のおでこにこつんとおでこを当てる。

「君はこれでいいの?」

 目を閉じてきくと、当てていたおでこが消えて、返事の代わりに柔らかな唇が押し当てられた。
 嬉しくてふわりと笑って、僕も覚醒のおでこにキスを返した。
 お互いに柔らかい目線を合わせた瞬間、周りの白が一気に消え去り、僕らの体は下へ下へと落ち始めた。
 お風呂の底が抜けたみたいにどこまでもどこまでも澄み切った水みたいな透明の中に沈んでいく。
 僕の中にも覚醒の中にも透明な光が入ってきて、びゅんびゅん通り過ぎていって、僕らの色を洗い流していく。  少しだけ残っていた血液も一緒にさらわれ、上の方に飛び去っていった。
 ぱくぱく、緩やかに動く覚醒の薄れた色の唇は何かを呟いて、柔らかな弧を描く。
 僕も同じ顔をしておでこをくっつけ、安らかに目を瞑る覚醒を抱きしめた。
 瞬間僕らは水滴と水滴をくっつけたように触れ合った所からぷるんと一つに合わさり、その途端透明が堰を切ったように僕らに突き刺さって、次々色を奪って全てを薄れさせていく。

 ああ、これでお別れなんだ。

 理屈じゃなく感覚で理解して高すぎて黒く染まった透明の天井を仰ぎ、もうほとんど色のない喉を手のひらで包んで、精一杯震わせる。
 もう僕の声なんてもうきこえてはいないだろうけど。 聞こえる訳なんて、ないんだろうけど。 これだけは。これだけは、最後に。





 
「────────、Splendid」





さようなら。
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ