10/25の日記

21:34
中村さんの論評
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最近グラコン見てて、中村義裕さんのグラコン批評読みたくなって読んでた(笑)

舞台よりざっくばらんで、下ネタも毒舌も堂本光一がするといやらしくないと。
そういやクリエでの光一氏見た後輩のファンが、彼が下ネタしても全然いやらしくないと言ってたな〜(笑)
まぁあんま生々しくはない。光一氏もだけどつよっさんも。
ふたりとも硝子の少年だから生々しくないのか(笑)

舞台からコンサートにまで手を広げていた中村氏w
ありがたい限りです。
エッセイでも書いて下さってた。
以前は昔の捜すの大変だったけど綺麗にまとめて下さってる。
これからもよろしくお願いいたします。

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【中村義祐】

演劇評論家。日本演劇学会会員、早稲田大学演劇学会会員。

少年の頃より芝居が好きで、現在までに4000本を超える芝居を観、その劇評や記録を残している。


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http://www.engekihihyou.com/engekihihyou/『endless-shock-2015』%e3%80%80%e3%80%802015-02-05%e3%80%80帝国劇場/#more-318

『Endless SHOCK 2015』  2015.02.05 帝国劇場
上演 / / 2015年2月8日掲載

Endless SHOCK 2015

 2000年の初演以来、少しずつメンバーを変えながら、16年連続での帝国劇場公演である。その間、一貫して主役を演じ続けているのは堂本光一だ。ショーの世界を舞台にした和製ミュージカルで、ナンバーが定着したものもかなりある。「Show must go on」のテーマが作品を貫いており、その中でいろいろなエンタテインメントを見せる方式は変わっていない。

 2000年の初演以来、何度か抜けてはいるものの、過去の観劇データを調べてみたら、同じ役者が演じる同じ演目の舞台の劇評を10本近く書いているケースは、松本幸四郎の『勧進帳』と森光子の『放浪記』しかない。幸四郎も森光子も、言うまでもなく名だたる名優であり、『勧進帳』も『放浪記』も長い年月を重ねて到達した舞台だ。この二人と同等の重みを持って彼を語ることはできないが、偉業であることは確かだ。それを彼は16年で成し遂げたわけだが、私が評価したいのは、ここへ至るまでの速さや回数などの数字ではない。毎年、帝国劇場を中心に「演じ続けている」ということだ。

 自分にいくら続ける意志があっても、肝心の観客がその舞台を支持してくれなければ、次の機会はない。まして今は、演劇界も混沌とし、多くの新しい作品は生まれても、それが再演されるケースは減る一方だ。そのために、過去の名作の洗い直しが行われる、という利点もある。しかし、こうして現在進行形で「続けている」ことの価値は大きい。
私の考えでは、舞台には「熟成」はあっても「完成」はない。これは、他の芸術分野でも同じ事が言えるだろう。今、15周年を迎え、堂本光一の舞台は完成を目指した熟成の時代に差し掛かっているのだ、と言える。

 ショーの完成度も毎年高くなり、相手役の屋良朝幸も2008年以来の持ち役であるライバルであり盟友、という役どころを的確に捉え、ここ数年で芝居が安定感を増し、堂々とした芝居を見せるようになった。少しずつ新しいメンバーを加えながら、堂本光一を中心にしたカンパニー全体が成長を続けているから、毎年即座に「完売」となるのだろう。
彼は相変わらず、自分の肉体と精神を極限まで追い詰めるかのように宙を舞い、階段を転げ落ちる。しかし、そこに不思議と悲壮感はない。これは想像だが、演じるたびに、台詞の中にあるように「新しい何か」を探しているからなのだろう。この発見のための努力がなければ、舞台は進化しないのだ。観客に「去年よりも面白い」と思わせるためには、舞台に立つ側は、想像以上の苦労を重ねなければ伝わらないものだ。

 それには、彼自身の努力ももちろんだが、周囲のサポートも大きい。一例を挙げれば、劇場のオーナー役を演じている前田美波里の抜群の存在感である。ベテランだから、の一言で片付けられないのは、このカンパニーが持つ力だろう。ミュージカル俳優としての実績はいまさら言うまでもないが、だからこそ安心して委ねられる信頼感がある。こうした人々が同じ方向を観て進んでいるから、カンパニーもまとまりを見せるのだ。

 今回の公演は3月の千秋楽までで75回に及ぶと言う。この間のモチベーションを維持するだけでも、さぞ大変なことだが、この一回一回の積み重ねが、大きな力になるのだ。彼がいつまでこの舞台を続けるのか、それは恐らく彼自身にも分からないだろう。しかし、堕天使が舞うようにフライングをする彼の眼には、「妥協」はなかった。

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<エッセイ「役者の話」>

2014. 5.17掲載

第十八回「堂本光一」

21歳の折に天下の帝国劇場で最年少座長記録を作った「Endless SHOCK」。初演の折には、一か月分のチケットが一時間足らずで完売になった、と聴いて驚いた記憶があるが、以来、今もその勢いが一向に衰えることなく、公演回数も1,000回を超えた。白皙の美少年もいつの間にか35歳になったが、あの小柄な身体のどこに潜んでいるのだろう、と思えるエネルギーの発露は変わらない。それどころか、進化を続けているのには驚くばかりだ。毎年彼が演じる「Endless SHOCK」を観ていて感心するのは、決して自らに妥協を許さないところだ。我々人間は弱い生き物で、辛い事を回避するために言い訳であれば即座にいくつでも浮かぶ。しかし、彼はそれを許さない。観客がどれほどこのステージを楽しみに待っているかを知っているからだ。

どんな仕事でも同じかもしれないが、ある程度の経験を重ねてしまうと、ともすると楽をする方法を覚え、それに対して周囲が何も言わない時期がある。これは演劇界にも当てはまることで、演技術でも何でもテクニックを身に付けてしまうと、そのテクニックに過剰に頼り、そこから前への歩みを止めてしまう役者がいる。実は、ここから先へ一歩を踏み出すことが、後に役者として大成するかどうかの大きなわかれ道の一つなのだ。そのことを頭ではわかっていても、「スケジュールが忙しくて」「脚本が良くないから」と言い訳はいくらもできる。それを一切許さない厳しさと潔さがあるからこそ、彼のステージが常に満員盛況なのだ。

この姿勢だけが彼の魅力のすべてだとは言わない。ただ、揺るがぬ根っこがあるからこそ、その上に様々な物を積み重ねることができるのだ。芝居を一つの城に例えれば、天守閣が燦然と輝くために、あるいは堂々とした威容を見せるためには、土台の石垣の石一つが欠けても適わない。芝居の創り方にも似たような部分があり、主役である彼を支える共演者や、ゼロコンマ何秒というスピードで仕事を進めなくてはならない大勢のスタッフが見えるところ、見えないところで「堂本光一」という天守閣を支えているのだ。そこに安閑と座して四方の景色を眺めている殿様であれば、この城は堅固なものにはなるまい。殿様自身が先頭に立って。新しい、より魅力的な城づくりに勤しむから、他の人々が着いてくるのだ。

これは役者の能力ではなく「個性」も預かっての部分が大きいが、生来座長に向く役者と向かない役者がいる。座長を支える立場に回って巧みな芝居を見せてこそ、座長はより輝きを放つことになり、必ずしも座長一人が偉いわけではない。しかし、すでに普通の人々とは違う生き方をしている「役者」という人種の中で、そう多くはないが生来の座長に向いた人もいる。彼には、それが備わっている。羨ましいことではあるが、厳しく、孤独だ。「山は高くなればなるほどに風当たりが強くなる」という。その高さまで登ってみた者でなければ分からない厳しい環境がある。これは、誰にでも共有できるものではないのだ。その孤独に耐え、なお首を持ち上げて前へ進むことができるかどうか。彼は、自分に課せられた運命と言うべき命題を知っている。だからこそ、「これでもか」というほどに自分を酷使し、観客の満足に生命を賭けるのだ。

私が観た限り、彼にはまだ伸びる余地がある、これからの伸びは、同じ長さでもさらに過酷なものになるはずだ。しかし、それを一番良く知っているのは彼自身であり、次のステージでその結果を形にして見せるのだろう。ここに、スターの孤独がある。

http://engeki-hihyou.sakura.ne.jp/hihyou/essei3.html?__from=mixipage#koiti

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<「演劇評論」>

2014.02.09掲載

Endless SHOCK 2014 2014.02 帝国劇場

2005年にこのタイトルでの上演が始まって以来、今年で10年とは早いものだ。ファンにとっては、「年に一度のお楽しみ」となった恒例の舞台だろう。昨年の3月21日には2000年の『SHOCK』初演以来、1000回の上演を迎えた。毎年、マイナーチェンジを繰り返しながら、エンタテインメントとしての「進化」を続けていることになる。同じ演目で単独主演が1000回を越えているのは森光子の『放浪記』、松本幸四郎の『ラ・マンチャの男』、『勧進帳』、山本安英の『夕鶴』しかない。いずれも長い年月を掛けて積み重ねて来たもので、堂本光一の場合はわずか14年でこの偉業を達したことになる。もっとも、回数を重ねることは大事なことだが、演じる方も観客も「その日一回」の舞台であり、そこにいかに精魂を込められるか、だろう。

小柄のせいかいつまでも20代のような印象でいたが、帝国劇場の最年少座長公演になった初演が21歳の折のこと、今年35歳になった割に、素晴らしい身体能力を見せる。相当強い意志がなければ、維持することは難しいはずだ。舞台を観ていても感じることだが、すべての面でストイックなまでに何かを追求する求道者のような姿は、この作品のテーマである「Show must go on」の精神にも通じるものがある。歌舞伎の世界では、江戸時代から作者の心得るべきものとして「三親切」と呼ばれる考え方がある。「観客に親切」「役者に親切」「座元に親切」の三つで、劇場へ足を運んでもらった観客に楽しかったと思ってもらえ、役者にはこの作品に出て良かったと思われ、座元(劇場)にはこの作品を上演して良かったと思ってもらえるような芝居を書け、という意味だ。失礼ながら、堂本光一がこの言葉を知っているとは思わない。しかし、先に述べた精神で彼が日々舞台の上で上演している「SHOCK」は、14年間にわたって、この「三親切」を満たしている。座長を勤めるのは舞台に立つ者が目指す頂点である一方、その栄光の座を占めるためのプレッシャーや努力は、第三者には計り知れない物がある。座長の椅子の数は限られており、誰かが席を立った瞬間に次の人が座ってしまう。これは、どの世界でも一緒だろう。しかし、35歳の若さでこの席を14年間保ち続けていることは、数字だけではなく多くの結果が証明している。

一例を挙げれば、「SHOCK」の名物は幾つもあるが、一幕のラストの立ち回りからの階段落ち。激しい立ち回りの後で二十数段の階段を一気に転げ落ちた後は、マイクを通して息切れの音が聞こえるほどだ。ここまで自分の身体を酷使するような舞台を日々続けることは、もはや尋常とは言えない。しかし、それでもなお、彼は自分自身にまだ「満足」を見出してはいないだろう。「もう少しできるのでは…」「もっとやらなくては…」という想いが彼を駆り立て、日々の舞台につながるからこそ、進化があるのだ。

昨年は前田美波里が演じていた劇場のオーナー役が今年は森公美子に変わった。この作品のファンであり、出演を願っていたというだけに、豊かな声量を活かした歌の部分に厚みが加わった。もう一点、敵役とも言えるライバルを演じる屋良朝幸がずいぶんと逞しくなった。他の舞台で揉まれていることもあるのだろうが、このカンパニーに意識の高さを充分に認識し、「SOHCK」と共に成長をしてきたのだろう。座長は、こうしてカンパニーの意識を高め、自らが引っ張ってゆくことが素質として求められる。この膨大なエネルギーが、あの細い身体のどこにあるのか、と不思議な想いがする。

役者は、さまざまな点で自分の限界に挑戦し、それを乗り越えようとするものだ。それが役者の「業」なのかも知れない。堂本光一は、タイトルの如く、「Endless」にこの舞台にチャレンジすることが一つの使命なのだろう。ファンもそれを待っている。3月末までに帝国劇場で76回の公演を終え、9月には大阪、10月には博多と上演が続く。どこまでも走り続ける堂本光一という青年の姿は、長距離ランナーの孤独に似たものなのかも知れない。ランナーとの違いは、まだ彼の眼には、ゴールは見えていないのだろう。

http://engeki-hihyou.sakura.ne.jp/hihyou/hihyou2014.html#shock14

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2013.03.24掲載

1000回目の「SHOCK」2013.03.21 帝国劇場

今まで、帝国劇場で多くの節目の舞台を観て来た。森光子の「放浪記」2000回、松本幸四郎の「ラ・マンチャの男」1200回…。いずれも、功成り名を遂げた名優の円熟の舞台だ。堂本光一は2000年の初演以来、12年と5ヶ月で1000回の単独座長公演の記録を打ち立てた。もちろん、最も若い記録である。どの芝居もそうだが、回数を重ねることは、回数が多くなるほどに難しさを増す。山が高くなればなるほどに登るのが難しくなるのと同じで、観客の眼も肥えて来るから求められるもののクオリティも上がる。その要求を満たしてなお、観客に求められる芝居だけが、回数を重ねることができるのだ。誰しも、記録のために芝居をしているわけではない。とは言え、21歳で帝国劇場の最年少座長を勤め、それ以降ただ一度の休演もなく走り続けていることは、評価に値する。まさに、この作品のテーマである「Show must go on」の精神を、自らが体現していることになる。よほど厳しく自分を律することができなければ、出来る技ではない。

ブロードウエイの若きエンターテイナー・コウイチ(堂本光一)を主人公とした根幹となるストーリーは変わらないが、毎年そこに様々な試みが加えられ、「進化」していることが、観客を飽きさせない理由だろう。推測ではあるが、この舞台にはリピーターもかなり多くいるはずで、同じ俳優が演じる作品を何回も、何年も観たいと思わせる点では、良い意味での古典芸能の歌舞伎と同じ側面をも持ち出した、ということになる。核になるものが決まっており、それに新しい要素が加えられて進化する過程も、歌舞伎に酷似していると言えよう。

堂本光一は、相変わらず軽やかに舞台を駆け回り、フライングを見せ、階段落ちをみせる。しなやかでありながらキチンと鍛えられた体躯は見事で、約3時間の舞台を息も付かずに全力疾走している。このスピード感も、「SHOCK」の人気の理由の一つなのだろう。今回の舞台から感じたのは、堂本光一には力強さと儚さが同居している、ということだ。両極とも言えるこの魅力を併せ持つ役者は、あまり他に例がない。30代半ばに差し掛かろうという油の乗り切った青年でありながら、初演の頃から変わらぬ危うい儚さを持ち続けている。力強さは日々の鍛錬である程度のことはできるが、儚さは努力や訓練で身に付けるものではなく、純然たる彼の個性だ。だからこそ、満開の桜の下に横たわる姿が似合うのだろう。その一方で、一幕の幕切れ近く、「今、立ち止まったら、そこで終わりが来るんだ!」と叫ぶ場面がある。この科白は、舞台に立つ者すべてが抱く感覚、あるいは宿命と言っても間違いではない。階段落ちの場面もさることながら、私はこの科白に彼のひときわ強い悲壮感を感じた。

彼を支えるメンバーは前田美波里が劇場のオーナーとして昨年まで出演していた植草克秀に代わり、ライバルも内博貴から屋良朝幸に代わった。こうした助演を得ながら、カンパニー全体が成長しているのが観て取れる。こうした進歩がなければ、1000回という数字を重ねることはできないだろう。彼が走り続けた12年5ヶ月は、恐らく彼の中では通過点の一つにしか過ぎないのだろうし、また、そうでなくてはなるまい。先に引用した科白のように、彼が満足してしまった瞬間に、進歩は止まる。それを続けることがどれほどに大変な事であるかは、他の舞台の例で何度も目にしている。それだけに、最年少で1000回も演じることのできる作品を持てた彼の俳優としての幸福を感じると同時に、更なるステップアップを続けようとしているストイックさに拍手を贈りたい。

終演後、1000回の上演を記念した特別カーテンコールが、約30分にわたって行われた。その中で、彼は「1000回という実感がない。毎日、その日が勝負だ」という旨の言葉を述べた。「SHOCK」に今まで出演して来た人々のビデオ・メッセージや、堂本剛、東山紀之らのサプライズ・ゲストに励まされながら、彼は1001回目への道を踏み出した。彼がたどる道はより遥かに険しいものになるだろう。しかし、「孤高」とも言える姿勢で、更なる高みを極めることを多くのファンが望んでいるのだろう。何回目の舞台までを見届けることができるのかは、私の彼への挑戦でもある。

http://engeki-hihyou.sakura.ne.jp/hihyou/hihyou2013.html#senshock


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2012.10.10掲載

堂本光一ソロライブ「Gravity」2012.10 横浜アリーナ

数年ぶりの横浜アリーナでのライブ鑑賞となった。毎年、帝国劇場での「Endless SHOCK」は初演の舞台から観ているが、歌手・堂本光一としてのステージを観るのは初めての経験だ。今回はソロ・アルバム「Gravity」を引っ提げてのツアーで、北海道を皮切りに12月の大阪城ホールまで全18ステージ、20万人を超える動員だという。「Gravity」とは引力、もしくは重力という意味で、彼が持つ引力を意味するのだろう。マイケル・ジャクソンの曲を振り付けたことでも知られるトラヴィス・ペインが振り付けた「Danger Zone」をはじめ、このアルバムの12曲を含めて、今回のステージでは合計19曲を歌い、踊る。

私は、J-POPの評論家ではない。曲の内容やライブの構成などについて、知ったかぶりをして恥をかいても意味がないので、ここでは彼が日ごろ見せる舞台と、今回のライブから受けた印象の違いを述べることにする。以前、帝国劇場の舞台に立つ彼の魅力は「憂い」と「翳り」だ、と書いたことがある。毎年ハードルを上げて困難に立ち向かうストイックな姿勢から受ける印象は今も変わってはいない。しかし、当然のことながら、ライブと舞台という、異なったフィールドで見せる彼の顔は違う。客席の照明が落ちた途端に一斉にペンライトが灯り、場内が総立ちになるライブでは彼は「憂い」も「翳り」も見せることなく、激しい踊りとMCの軽やかなトークで客席を沸かせている。どんな役者も「一面」しか持っているわけではなく、違って当然だ。状況に応じたいくつもの顔を持ち、姿が見せられてこそのエンターテイナーであり、今回のステージで見せる堂本光一の姿は、決して二律背反でも矛盾でもない。

帝国劇場の舞台しか観ていない私には、「意外にざっくばらんだな」という新たな印象が加わったが、ここで一つ、不思議な感覚があった。彼は、MCでファンに対し、信頼感と愛情に結ばれた上で、かなりの毒舌を吐き、ファンもそれを待っている節がある。私には初めての姿だったが、白皙の二枚目と毒舌や下ネタのギャップ、という点も面白いが、どんなことを言っても嫌らしく聞こえないのは個性であり、彼のもう一つの魅力だろう。観客に媚を売るわけではなく、突き放すような発言をしても、決して不愉快に聞こえることはない。あえて言えば、何か透明のベールかカプセルに包まれているような感覚がある。ファンの女性たちの間では、彼のことを「王子」と呼ぶ人もいるようだが、その所以は、ここにあるのだ、という確信を覚えた。

2時間半に及ぶステージを、まさに駆け抜け、踊り尽くす印象があった。この日は2回公演と聞いたが、体力と気力だけで乗り切れるものではないだろう。周りのサポートはあるにしても、一万人を超える観客を相手に一人立つ姿の中に、33歳の青年の「孤高」の瞬間を垣間見たステージであった。

http://engeki-hihyou.sakura.ne.jp/hihyou/hihyou2012.html#doumoto

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http://engeki-hihyou.sakura.ne.jp/hihyou/hihyou2012.html#shock
2012. 2.13掲載

Endless SHOCK 2012.02 帝国劇場

2000年に初演をしたこの作品も、今年で12年連続となり、今回の公演中には上演回数が900回を迎えるという。どんな芝居でもそうだが、数を重ねて行くことは、想像以上に苦しいものだ。当然のことながら、観客の支持、「また観たい」という熱望がなければ続けられるものではないし、本人のスケジュールやさまざまなタイミングの問題もある。まして、主演の堂本光一は舞台を専門として活動をしているわけではない。その彼が、今年のお正月は博多座で1か月、休む間もなく帝国劇場で2月から4月までの通算4か月のロングランに挑戦している。これは、単純に若くて体力があるからできるというものではない。そういう点で言えば、かつて同じ帝国劇場で、森繁久彌が、当時は国民的ミュージカルと言われた「屋根の上のヴァイオリン弾き」を60代で6か月のロングランを行ったこともある。しかし、公演回数や興行の形態も違うし、一律に比較することはできないだろう。

松本幸四郎の「ラ・マンチャの男」にしても、森光子の「放浪記」にしても、数を重ねた名作にはそれだけの理由がある。もちろん、作品の良さ、主役を中心とした役者の魅力はあるだろう。しかし、それだけで続くものではない。昨日より今日、前回の公演より今回とレベルアップをして行かなければ、熱烈な支持を得ることはできない。昨年の帝国劇場での公演は、東日本大震災の影響で公演途中での中止を余儀なくされたこともあり、今年はファンの期待も更に大きかっただろうし、それに応えるべき堂本光一をはじめとするカンパニーのプレッシャーも並大抵ではなかっただろう。相変わらずの白皙の美青年ぶりで、難なく舞台をこなしているように見えるが、その努力は、おそらく観客の想像を絶するものであり、それを毛ほども感じさせないのがプロのプロたる所以でもある。

ショーマン・シップのあり方を見せるという大きなテーマは変わらないものの、この公演は毎年少しずつ形態を変えている。これを「進化」と呼ぶべきか、「努力」と呼ぶべきか。今年の舞台にはマイケル・ジャクソンの振付師でもあったトラヴィス・ペインのところへ自らが出向き、新しいシーンを創るなど、エンタテインメントとしての充実ぶりには労を惜しまない若き座長の努力は評価に値する。それが、ファンの心に共鳴を与えるのだろう。はっきり言ってしまえば、去年と同じ舞台を見せても、観客は殺到するであろうし、満員御礼の日々は続くはずだ。しかし、堂本光一の中にあるショーマン・シップの「魂」が、そこに安住することを許さないのだろう。観客は敏感である。それを感じるからこそ、毎年、最もチケットの取りにくい舞台として、帝国劇場を埋め尽くすことができるのだ。

厳しい言い方をすれば、彼の姿勢は一座の座長を張る役者としては当然の姿であり、精神であえい、これこそがまさにショーマン・シップだ。しかし、誠に残念ながら、この精神を持たずにかつての評価に安住し、一歩はおろか半歩も前進しようとせずに、同じような芝居を繰り返している役者が少なくはない、という実情がある。演劇界が全く先の見えない混沌としている今、単にジャニーズの売れっ子の公演だから、ということだけではないのだ。そこに、この公演を続ける価値がある、と私は思う。もう三十年以上も前に、名優と言われる古老が私に教えてくれた言葉がある。「再演だからと言って、前と同じようにやったのでは、お客様は『前の方が良かったなぁ』と思う。前よりも、努力をして勉強をして、少しでもいいものにした時に、『ああ、やっぱりいいねぇ』となる。でも、役者にとってはこの寸法を伸ばすことが大変なことなんだよ」と。堂本光一が、この名優の話を聞いているとは思えない。しかし、彼自身が座長を勤めて来た経験の中で、体得したのだろう。彼の中にこの精神がある限り、「Endless」なのだろう。

私は、かつてジャニーズの公演を「演劇界の新しい潮流」という表現をしたことがある。しかし、900回の数を重ね、1000回に及ぼうという公演を「新しい潮流」だけでは済ませることはできない。彼が、今後どこまで発展と進化を繰り返しながらこの公演を続けて行くのか、それを見届けるのも一つの役目だろう。

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http://engekihihyou.o-oku.jp/hihyou/
2010. 2.18掲載

Endless Shock 2010.02 帝国劇場

 2000年の初演以来、今年で11年目となる。「Show must go on」をテーマに、毎年いろいろな部分を変えながら、一つの芝居が進化をたどっている舞台だ。バックステージ物とも言えるジャンルの芝居で、堂本光一扮する「コウイチ」がショーの世界で多くの困難にぶつかりながら進んで行くという設定は当初から変わっていない。「継続は力なり」というが、31歳になったばかりの若さで、帝国劇場を11年間満員にする力はたいしたものだ。

 今回の舞台を観ていて感じたことが幾つかある。まず、11年間演じていながらスピード感が全く衰えていないこと。いくら若いとは言え、今年について言えば2月、3月、7月と三カ月で合計100ステージを演じることになる。ハードスケジュールの合間を縫っての稽古で、毎年新しい要素を加えながらも舞台のテンポが落ちずにいることは評価して良いだろう。もう一つ感じたのは、堂本光一が去年のステージに比べて格段に逞しさを増したことだ。格闘技などのスポーツ選手のような体格ではないながらも、あの華奢な身体のどこにあんなにエネルギーがあるのだろうと思って今までの舞台を観ていたが、身体が一回り大きくなっているような気がした。具体的にどんなトレーニングを積んで来たのかは知らないが、ハードな舞台をこなすために、努力を重ねた結果であろう。この事実一つを取ってみても、まさに「Show must go on」のために他ならない。

 昨年、ある雑誌に、彼の個性は「愁い」と「翳り」にその真骨頂がある、という内容の記事を書いた。その感覚は今も変わっていないが、今回の舞台を観ていて、ふとある歴史上の人物に似た感覚を覚えた。誰もが知っているが実像は観たことがない、悲劇的な歴史のヒーロー「源義経」である。「義経」は同じジャニーズ事務所の滝沢秀明が演じているが、どちらが良い悪いという比較検討の問題ではない。堂本光一が感じさせるものは大袈裟に言えば、悲劇的な「運命」とも「陰」とも言えるべきものを身にまとっているものの魅力だ。ある場面では、京都の五条橋で弁慶を相手に軽々と立ち回った白皙の美少年の面差しを感じさせる。その一方では、来るべき悲劇の予感をまといながらも果敢に運命に立ち向かう武将としての義経の側面をも見せる。義経の短い生涯の中でもいろいろな顔があるわけで、我々が「伝説」として知っている幾つかの顔、場面が今回の舞台から感じ取れた。悲運の武将と堂本光一の姿を重ね合わせることがどういう意味を持つのか、それが意識的に行われているものなのか無意識に彼が醸し出すものなのかはわからない。ただ、それが変にギラギラと男くさくならない「淡さ」とでも言うべき二面性が、彼の魅力であるのかも知れない。

 さまざまなイリュージョンやフライング、和太鼓の演奏、シェイクスピアの「ハムレット」や「ロミオとジュリエット」の一場面など、観客をいかに多くの方法で楽しませるか、という舞台の創り方は、今までにも何度か書いて来たがショーマン・シップを知りつくしたジャニー喜多川の薫陶によるものだろう。今、景気の悪化と共に演劇界も厳しい状況に置かれている。その中で、劇場にいる数時間、いかに観客を満足させるかという、一番シンプルで重要なところに力点を置いた舞台には、それなりの価値がある。ジャニーズのファンに熱狂的な人々が多いとは言え、「満足」が得られなければ次へはつながらないだろう。そのために努力を惜しまないカンパニーの姿が観客に響き、それが11年続いている原因の一つである。

 先輩に当たる少年隊の植草克秀が劇場のオーナー役で出演し、後輩の屋良朝幸がライバルで出演している。先輩を立てながら同時に後輩を育てて行くという器量は、立派な座長である。「Endless」と銘を打っている以上、まだしばらくはこうした公演形態は続くのだろう。その中でどう次の年へ脱皮を繰り返してゆくのか、そこに興味がある。

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http://engekihihyou.o-oku.jp/kakimono/2009.html#urei
堂本光一「愁い」の魅力
2009.2.19 中日新聞掲載

 日本の演劇シーンが大変な勢いで変化を遂げている。景気の変動もさることながら、観客の嗜好もより多様化し、多くのジャンルの舞台が数えきれないほどに増えた。今までにたびたび書いて来たが、演劇は時代と共に変容するものであり、それは当然のことだ。

 東京・帝国劇場で2月、3月と堂本光一主演の「Endless SHOCK」で実に14万人を超える観客を集めている。この公演は2000年に始まった「MILLENNIUM SHOCK」以来今年で10年、観客総動員は120万人を超える。「菊田一夫演劇大賞」をも受賞しているこの舞台は、単なる「ブーム」としてとらえるには余りにも大きな現象であり、演劇界の一つの「水脈」となっているのは明らかだ。わずか21歳にして帝国劇場の史上最年少座長として話題になって以来、10年間大入り満員を続けているのは評価に値する。

 「Show must go on」の精神に乗っ取りショービジネスの世界を描いているこの舞台は、ジャニー喜多川が身につけたショーマンシップのもとに構成されている。今回の舞台でもメインテーマとなっているこの言葉は、舞台に立つものすべてに通用するものだろう。

 面白いもので、テレビで見る彼の姿と、舞台の姿は違うような気がする。媒体によって求められる役割の違いが理由だろうか、テレビでは陽気なトークで軽妙な明るさを見せる。その一方で、この舞台を観ていて感じた彼の生の魅力は、そこはかとなく漂う「愁い」やふとした瞬間に見せる「翳り」のような感覚だった。堂本光一の舞台には、「愁い」がある。それはマイナスイメージではなく、魅力なのだ。今のイケメンブームの中で、「愁い」が魅力となる俳優はそうはいない。それが堂本光一の色なのだ、と思う。

 30歳になった彼が、3時間25分の舞台を、フライング、早替わり、和太鼓の演奏からイリュージョンまで、力の限りを見せる。若い役者のエネルギーが横溢した舞台に、劇場を埋めた若い女性客は、惜しみない拍手を送り、客席の体温の高さが伝わって来る。2ヶ月間で76ステージをこなすというのは、尋常のスケジュールではない。しかし、それでもなおチケットが一瞬にして売り切れるだけの素材の魅力とショーマンシップを、身に付けているからこそ、10年間の支持があるのだろう。

 今回、堂本のたっての願いで共演している植草克秀がメンバーである「少年隊」が、昨年の夏でミュージカル「PLAYZONE」の23年間にわたる幕を閉じた。しかし、その後を受け継ぎ、また新たな形で魅せるこうした公演が、これからの若い観客を引っ張る大きな力であることは間違いないだろう。今の演劇界が模索するべき問題は、ここにあるのだ。

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