短編小説

□Les doux moments   ―甘いひと時を―
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Les doux moments   ―甘いひと時を―



「何か、チョコレートでお好きなものはありますか?」
この質問に私はきょとんとした。
フランスではチョコレートとは言わず、ショコラと呼ぶ。
ショコラで好きなものは、『ドゥボーヴ・エ・ガレ』と答えた。
ろくでもない貴族が愛してやまない、とても上品な味だ。
ドゥボーヴ・エ・ガレがろくでもないように聞こえるかもしれないが、あくまでも貴族のことであり、ここで働いている職人は一流だ。
いかにその味が優れているのか熱く語ったのだが、ふと気がついた時には、ヒナの笑みはどことなく陰り、どこかしょんぼりとして元気がなくなっていた。


自分が何か変なことを言ってしまったのだろうかと、記憶を延々と再生してみたが、ちっともわからない。
謝ろうとしたら、ヒナはナーディルの家に行くと言いだした。




――口うるさい友から小言を受けると直感した。





あいつのことだ。絶対にヒナから色々聞き出すに違いない。
ヒナは私の悪口を言うことはないが、あいつは性格が捻じ曲がっているから、そうは思わないんだ!
ナーディルからの小言は聞いたふりをすればいいだけの話だが、もしヒナが私の愚痴を言ったらと思うと……生きた心地がしない。
ナーディルの家には彼女一人で行くと言ったからには、自分はここで一人寂しく留守番だ……。
いや、それはまだいい。よくはないが。
ヒナの身に何か……それこそ、また好からぬ者共が手を出したらと思うと気が気じゃない。
私の心臓が爆薬で吹っ飛ばされるほどの衝撃になるだろう。



私はベルナールの馬車に乗るヒナをこっそりと見送ったが、とてもじゃないが地下に帰る気持ちになれず、ずっとその場に佇んでいた。
一分が何時間にも感じられ、隠し扉から盗み見る景色と懐中時計を見る回数がやたらと多くなっていった。
ヒナが元気よくかえって来た時には、やはり自分が何かしたのだという現実が、薄っぺらい自分の胸を乱暴に叩いた。


ナーディルの家で何を喋ったのか聴きたかったが、不躾だと思えた。
それこそ警察長官の癖が抜けきれないあいつと同じになってしまう。……それだけは絶対に嫌だ。


何を買い物してきたのかわからなかったが、ヒナは両手いっぱいに荷物を抱えていたので全て持つと申し出たのだが、すんなり断られてしまった。
荷物の一つを大事そうに持つヒナを見下ろして、駄目な彼氏だと思う。
ナーディルに色々負けてしまっている自分が情けない。
そう思って地下の長い螺旋階段を歩いていると、ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。
どうしてここでという疑問は、そんなはずはないという考えに変わる。
結局、ショコラをベルナールに頼み忘れた私の、ただの勘違いだろうから。


ヒナが買い物の荷物をキッチンに置いて欲しいというので、テーブルに置いて去ろうとしたら、突然チョコレートケーキを貰った。
彼女はあまりこの手の味を好まないので、少々驚いてしまった。
甘い香りはこれだ。
しかも、5号の大きさながらも、丸々一個すべて私のために用意したと言うではないか。


未来の日本では、女性が男性に送るらしい。
お菓子屋の策略に乗せられていると思ったが、わざと乗せられるのも悪くはない。
現に、美味しい手作りケーキにありつけたのだ。ザッハトルテは実に至極絶品と言えた。
私は目頭に熱いものがこみ上げながら、一口一口頬張った。


バレンタインは男性からするものだと思っていたので、まさか、女性から贈り物が来るとは微塵も思わなかった。
しかし、色々考えすぎて、自分は何も用意していないという体たらく。


すぐにお返しを考えたが、3月14日がお返しの日――ホワイトデーに当たるらしい。
この時代にはそんなイベントはないだけに、日本のマドモアゼル達はキッチリとお返しを欲しがるのだなと苦笑してしまった。
ちなみにお返しは何がいいかとヒナに尋ねたら、何もいらないとの返事だった。
これは困る。紳士として返さないのは礼儀に反するのに。


お返しは装飾品が良いと考えたが、彼女はあまりつけない。
確かに、宝石をつけなくとも彼女は実に美しい。
だが、さりげないものでもいいからつけて欲しい時もある。
何もない首を見ると、ふと寂しく感じてしまうのは失礼かもしれないが。









14日の朝が来た。
ヒナは朝からキッチンの脚立に乗っていそいそとご飯を作っていた。ピンクのフリルエプロンが可愛い。
「おはよう」
「おはようございます」
いつも通りの顔だ。穏やかな微笑み。いつ見ても心が安心する。


「ヒナ、私は食事をしたら、ちょっとベルナールと出かけてくるよ」
「え? ええ……」
一瞬驚いたヒナの顔色が曇った。
「君のバレンタインデーのお返しを買いたいんだ。すぐに帰ってくるよ。いい子にして待っていてくれるね?」
笑いながら言うと、ヒナははにかんで、
「要らないって言っているのに……」
顔をそむけてしまった。
顔が妙に赤い所を見ると、ちょっとは嬉しいらしい。
私はにやりと笑って、キッチンの椅子に座った。



「――ベルナール、最初は紅茶の店に行ってくれるかな」
「ヒナ様にですね」
「嗚呼、そうだ」
「お任せください!」
何だろうか。私の用事の時には、真面目な顔で左程嬉しい顔をしないのだが、ヒナが絡むと嬉しい顔をする。
あれか? 私が彼女に贈り物をするのが、そんなに面白おかしいのだろうか。


「ベルナール」
「はい。なんでしょうか、先生」
「……いや、何でもない」
「……は?」
馬車の階段に足をかけてに乗りかけた際、
「あの子は……いい子だな……」
ベルナールに小声でつぶやくと、ベルナールは神妙に頷いた。
「先生が幸せそうで、私はとても嬉しいです」
ベルナールの言葉に面映ゆくなって、早々に馬車の中に入ったのは言うまでもない。
しもべのベルナールは、嬉しそうに礼をして馬車を走らせた。


店の中に入ると、店員にぎょっとされたが、まぁ、今日は気にしないどこう。
「アッサムのファーストフラッシュ、カルチェラタンとグランボアシェリ・バニラ、そしてアップルティーの缶を全部欲しい」
「……全部でございますか?」
「全部だ」
異論は許さぬと睨むと、若い店員は青ざめて、すっころびながら用意を始めた。
彼女にあげるのだから、もう少し丁寧に袋に詰めて欲しいものだ。
買ったものをベルナールに運んでもらった。ずっと嬉々としている。


 
……見ているこっちが恥ずかしくなるからやめてくれ。



「さて、次はお菓子屋だな」
「ヒナ様は、ケーキなどの甘いものが得意ではありませんでしたね」
「嗚呼。それでいて、お菓子作りは好きなのだから変わっている」
「先生はそのお菓子を食べるのが好きではありませんか」
「……喧しいぞ。ベルナール」
しもべを黙らせたものの、どうも今日は言葉に凄みがない。


お菓子屋でマドレーヌやタフィー、フィナンシェなど、ヒナが好きそうなのを買って、最後に花屋に寄ってもらった。
買ったものを抱えて地下に向かう際、ベルナールから、
「きっと喜んでいただけますね」と言われてしまった。


――煩いから、早く帰ってくれ!


「--ただいま。今戻ったよ」
小舟に乗ってそう告げると、リビングからヒナが走ってきた。
走るぐらい寂しかったのかと、ギュッと抱きしめると、
「あわわわ……」
彼女はわたわたと腕の中で慌て始めた。


抱きしめた腕を解くと、ヒナはほほを染めて俯く。
「遅かったのですね」
「あ、ちょっと店で色々考えごとをしていたのでね。一人にさせてすまなかったね」
「いえ、アイシャがいましたから」
柔和な笑みで言うヒナの口調は穏やかだ。でも、寂しかったと、その瞳の色が訴えている。
全く、目は口ほどにものを言うとは、正しいものだ。


バレンタインデーのお返しの紅茶の缶とお菓子を差し出すと、はにかんだ。
次に深紅の薔薇とカスミソウの花束を差し出すと、目を輝かせて笑ってくれた。
「こんなに沢山……いいのですか?」
「これでも少ない方だけど」
「そんなことありません! 嬉しいです、とっても嬉しいです!!」
顔をぶんぶんと振る彼女の姿は、可愛らしい。


夜になって、ヒナにヴァイオリンを聴かせると、うっとりとした表情で聴き入ってくれた。
女神のような彼女の微笑みを独占できる私は、幸せ者だな。ハデスの妻ペルセポーネの笑顔は、きっとこれぐらい美しいのだろう。
一つ一つの音色に、彼女への愛を込めた事を、きっとわかっているに違いない。
演奏が終わるとヒナは嬉しそうに拍手をおくり、私は恭しく礼をした。


「ワインの用意をしますね」
「嗚呼……今日は……その、一緒に……飲まないか?」
ヴァイオリンの絃の松脂を取り終えた私は、そわそわしながら訊ねた。
「え? でも、私……ワインあまり強くないのですが……」
「君でも飲めるように、甘口で上品なワインを手に入れたんだ。一緒に飲んでくれないかな……。勿論強制はしないつもりだけれど……」
ヒナは少し考えて、
「じゃ、一緒に」
こくんと頷いた。



スパークリング・ワインを縦に長いフルートグラスに注いで、
「乾杯」
にっこりほほ笑むと、
「乾杯」
ヒナも笑ってグラスを持ち上げた。
楽しい夜になりそうだ。



――と、思ったのは、撤回しよう。



……彼女がここまでアルコールに弱いとは。
まさか、グラス半分で酔っぱらうとは思わなかった。
「むぅ、エリックしゃん」
「しゃん!?」
「何か、ここ熱いですよね〜」
ヒナは手でぱたぱたと顔を仰いでいる。実に艶っぽい顔だ。
「あ、アルコールがきいたのかな。って、ヒナ……な、ななああ……何をしているんだ!?」
「ふぇ? 熱いから脱ごうかと……」
「あ、そうだな。確かに熱いなら服は脱いだほうが――って、ここで脱ぐんじゃない! 駄目だ、見えるから!」


そう、彼女は私の目の前で、服のボタンを外し始めた。
うぇええ!? 彼女は酔うとこんな癖がでるんですか!?
ちくしょう! 何故、今までこんなことを知らなかった!
って、そんな考えをしている場合じゃない!
慌ててヒナのもとに駆け寄ると、とろーんとして私を見上げている。
この表情は危険だ……。
私の中の猛獣が外に出ようと、頑丈な檻に体をぶつけ始めた。


咄嗟に顔をそむけて言った。 とてもじゃないが、見れない!!
「と、取りあえず、服のボタンを戻しなさい! 今すぐに!!」
「うにゅ……」
――トスッ。
コクンと頷いて、そのまま私に抱きついてきた。


「――は!?」
いきなりのことで腰がストンと抜けて、そのままヒナに押し倒される形になってしまい、その彼女はというと、私の胸元でスースー寝入ってしまった。


ヒナさん!? 貴方は酔うと脱いで寝るんですか!? 
そこまで弱いのですか、貴方は! お持ち帰りできるではないですか! 
いやいやいや、私以外にお持ち帰りをしよう者がいたら、即死んでもらうが!!


…………
………………
――で、私は……どうすればいいですか……。
酒の力を借りて、襲うのは紳士としてあるまじき行為だ。


「とりあえず、起こすか……」
軽くため息をついて、髪の毛をかきあげた。
このまま寝させてあげたいが、しかし、生殺しもキツイ。
理性という天使と欲望の悪魔が、脳と下腹部で激しい戦いを繰り広げているのだから。


「ヒナ……起きなさい……」
特殊な声色を使うと、ヒナはすぐに目を覚ました。
だが、まだ焦点が定まっていないようで、ぼんやりとしている。
「す、すまないが、退いてもらえるだろうか? このままだと私の気が狂いそうだ」
「……え? ――うああ、ご、ごめんなさい!」
ガバッと飛び起きたヒナは、すぐさま私に背を向けた。
驚きで酔いがすっかり冷めてしまったらしい。


私はスーツの汚れをぱんぱんと払って、ヒナの背中にそっと近寄って囁いた。
「――ヒナ」
足音も立てずに近寄ったものだから、びくりと身じろぎをする反応が愛らしい。
「こっちを向いてくれないのかい?」
「む、向けません」



――やってしまった。
真っ赤なその横顔にはそう書いてある。



どうやら、ワインに弱いのは嘘ではなかったらしい。自分の失態をかなり恥じているようで、背を向けたまま項垂れた。
「――じゃあ、そのままでいいから、後ろを振り向かないでおくれ」
彼女のために仕立てた、私の瞳と同じ色のエメラルドをあしらったネックレスをそっと首にかけてあげた。
私がいないときでも、彼女を独占できるのは私だけだ。
独占欲が強かろうがなんだろうが、私はこの考えを変えるつもりはない。
シャラッと鎖の揺れる音と共に、彼女の顔が驚きに変わる。
「あの、これは――」
「ささやかなお礼の一つだよ」
「あ、ありがとうございます……」
嬉しそうにつぶやく彼女に、もう一つの品を後ろから手渡すのは、一輪のアネモネの花。


「花言葉の意味はわかるかな?」
「はかない夢、薄れゆく希望?」
「うん。その通り。でもね、アネモネの花言葉はもう一つあるんだよ」
私は彼女の髪の毛をそっと撫でて、耳元で甘ったるくも熱く囁く。



「――貴方を愛します」


ヒナの顔がリンゴのようにみるみる真っ赤に染まる。
後ろからひょいとヒナを抱き上げて、私の寝室へ向かった。




今宵は素晴らしい夜になりそうだ。



************
あとがき

この話は長編小説31話後に作成したものです。
拍手用にUPしたのですが、時期が時期だけに一時的な小説でした。
ですから、見ていない読者も大勢いるのではないかと思います。
ヒナの話と対になるように、ちょっと手を加えてみました。
またUPすることができて光栄に思います。


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