本棚/長編

□邂逅
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その日は生暖かい潮風が頬を撫で、なんとも不快な夜だった。氷結人間のクザンでさえ、その湿気を孕んだ潮風を疎ましく思う。額はじんわりと滲み、汗に濡れたワイシャツが肌に貼り付いて余計に暑さを助長する。

夏になるとこの能力を羨ましがられ、氷を出せと同僚にせがまれるが氷結人間だからこそ、この暑さが余計に堪える訳で。氷結人間だからこそ寒さに強くて暑さに弱い。こんな事、ちょっと考えれば分かるでしょうがと苛立つが、クザンはそんな主張をぐっと飲む。もはや口を動かす事すらが、体内温度を上昇させる要因の一つなのだ。

「あー、暑い」

それでも自然に動く口は、気付けば暑い暑いと連呼している。その言葉がまた不快を呼び、また口を開く。全くもって悪循環。こんな日は浜辺を歩き、昼間と比べ幾分か涼しい潮風にあたりながら帰ろうか。そんな考えもこの耐え難い湿気を前に、ものの見事に打ち砕かれた。

こんな事ならいつもの最短帰路で帰り、冷たいビールでクールダウンさせるんだったと、クザンは垂れる汗をシャツの裾で拭いながら重たい足を踏み出した。

「……あ?」

寄せては返す波の音を聞きながら、視界の端に映る人影にふと視線を寄せる。月光に照らされ幾分か視界の良い今夜は、波打ち際に佇む女の影を砂浜に映していた。

白いワンピースを翻し、長い髪が潮風に靡く。その情景がまるで小説の世界を描いた絵画の様に思えたクザンは、防波堤のコンクリートに両肘をついてただぼうっと眺めていた。

綺麗だとか美しいだとか、そんな形容ではなくて、どこか危なげでどこか儚げな、それこそ未完成な絵画の様だと乏しい感性を働かせる。この絵には何かが足らないのだ。

「おい、冗談だろ!?」

足らない何かを考えても絵心など持ち合わせていないクザンには、皆目検討がつかない。しかしぼうっと眺めていた時、黒と白のコントラストに浮かぶ女の影が一歩、また一歩と海水に浸かっていくではないか。スカートは波で遊び、マリンフォードどころか世界を照らす月に、まるで引き摺られるかの様に影が小さくなる。

「いやいやいや、笑えねえって」

クザンはコンクリートを飛び越えて、ザクザクと砂浜を踏み締めた。折角かったるい仕事を終えたと言うのに、一日の終わりに人の死に目に遭遇するなんて後味悪い事この上ない。生に絶望し、どうしても死を望む人間を死ぬななどと無責任な言葉で繋ぐつもりはないのだが、やはり目の前で末期を迎えられるのは、さすがの海軍最高戦力の大将青雉でもご勘弁頂きたいのだ。

「ちょい待ち。お姉さん、何やってんの?」

勢い良く掴んだ手の力を無意識に緩める程、フレアな袖から伸びた腕は思いのほか華奢だった。気付けば膝下まで海水に浸かっており、微かな脱力感に顔をしかめる。一方、女性は胸まで浸かっており、これが入水以外の行為ならば是非ともご説明頂きたい。

「…特に、何も」

「こんな夜中に海水浴?」

少々不機嫌そうに背を向ける女性の手を引いて浜辺まで連れて来ると、革靴の中に入った海水がジュクジュクと気持ち悪かった。

もしこの女性が生きる術を失って、死を苦渋の決断だとしたならば彼女の人生を担えない自分は、酷く無責任だったかもしれない。クザンは替えのズボンがあったかと考えながら、水が滴る裾を簡単に絞った。

「んーまあ、あれだ。生きてさえいれば、また良い事もあるんじゃねぇの?」

月並みな言葉が追い込まれた人間に響くとは思わないが、気の効いた言葉など思い浮かばず、仮に思い浮かんだとて恐らく口は動いてくれないだろう。向けられた背は相変わらず月光に照らされ、クザンの言葉に女性はさも不満げに振り向いた。

「別に死のうとなんてしてませんけど」

月光を背から受けているせいだろうか。振り向いた顔は逆光の為に闇へと消えかけ、表情こそ分からないが自分よりも遥かに小柄な女性の顔が、幾ばくかの怒りを含んでいる事が察知出来た。

「助けて怒られちゃ俺、割が合わないんだけど」

「もし私が本当に死のうとしていたなら、助けた後の責任もとって頂けるのですか?」

クザンは寧ろ咄嗟に出たこの行動に、まだ自分の中にもまともな道徳観念が残っていたのだと、少なからず安堵していた。助けた後などを考えて利己主義的に動かない体なら、それは中身が腐っている。クザンはそう考えたが、この割の合わない人助けに殆嫌気を感じていたのだ。

「人を助ける事に責任が生じるなら、生きる責任もあるんじゃねぇの?」

「他人の望んだものを奪い取って、尚も助けられた側に責任が生じると?」

水掛け論も良いところだ。
常から物事を柔軟に考えようと努めるクザンも、さすがにこれは引けない。それが海軍大将としての立場故か、それとも一人の人間としてかは正直分からなかったが、何せ目の前の女性の言い分に納得がいかなかった。

どうしてもと言う人間を死ぬなと安易に繋ぎ止めるつもりはないが、その苦渋の決断の先にはまだ一つ、別の道もあるんだと言ったまで。まあしかし、それを無責任だと言われたら、それはそれで無責任なのかもしれない。

「んー、まあ君は死のうとしてないんだろ?ならオジサンの勘違いって事で丸く治めて下さいや」

あぁもう面倒臭いと踵を返し、クザンは背中越しに手を振った。やはり慣れない事をするんじゃなかったと小さくため息をつき、もと来た方へと足を進める。

「お人好しですね、お兄さん」

ふいに向けられた言葉に振り向くと、月に照らされ形容を露にした女性が、無表情で自分を見つめていた。長く伸ばした黒髪は潮風に靡き、その肌は色白で切れ長の瞳は確かにグレー。先程から美しいながらも何かが足らないと思った要因は、彼女自身の色彩だったと確信した。

「まあ…お人好しでなけりゃ、やってけない仕事なのよ、俺」

目に入る風景には確かに色などないのに、月光に照らされた彼女は生きた色をしている。そのアンバランスな情景は、クザンの心を掴んで離さなかった。

「お姉さん、名前は?」

そんな疑問を投げ掛けながら一歩ずつ歩み寄ると、同じく女性も一歩ずつ身を引く。これ以上近付くなと無言の圧は掛けるのに、表情だけは沈黙を守っていた。

「あなたにお答えするつもりはありませんが」

顔に掛かる髪を小指で払うその仕草さえ、美しいと感じてしまう。この場でどうかしようと思う程女に飢えてはいないが、ただ純粋にこの先を望んでいる事は確か。言葉の約束で繋ぎ止められるならと賭けに出たが、どうやらそう簡単にはいかないらしい。

「また会える?」

女性は小さく溜め息をつきながら、水気を含んで重くなったワンピースの裾を太股辺りで結び、乱雑に投げ捨てたサンダルに指を掛けた。

「いいえ。もう会う事はないでしょう」

そう言いまるで何かを哀れむかの様な視線のまま、くるりと踵を返す。寄せては返す波の音と、砂浜を踏み締める音が静かな夜に響いていた。

そしてまた黒と白のコントラストの中、小さな影が消えていくのをクザンはぼうっと見つめていたのだった。



To be continue...

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