本棚/長編

□混濁
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「あー、こちら青雉。大切な物を預かった。至急俺の部屋に来るように」

終業時間三十分。真夏の日差しが威厳を失いつつある頃、クザンは軍内放送用の電伝虫を手に、とある暴挙に出ていた。

「クザ〜ン。誰に向けて言ってんのか、全く分からないでしょ〜がァ」

普段なら自分の居場所をむざむざと人に言うことはしない。ましてや、軍内放送などと不特定多数の人間に知られる手段は絶対にとらないのだ。

「あ、そうだった。これまだ繋がってんの?」

「ぜ〜んぶ、筒抜けだよォ〜」

「あららら…あーあれだ。中将のサラちゃんね」

慌てて切るクザンを見ながら、きっと今頃軍内で失笑を買っているんだろうとボルサリーノは思った。

「けど良いのかァ〜い?居場所を言っちゃってェ〜。鬼の補佐官君が飛んで来るだろォ〜」

普段、クザンが絶対にしない理由はここにある。逃げても逃げても必ず先回りし、不敵に笑う補佐官はさすがのクザンでも背に冷たいものを感じていた。仮に逃走が成功しても、そう簡単には諦めてくれない。クザンは元帥に他の補佐官をつけてもらえるよう何度も掛け合ったが、無駄な努力だったようだ。

「大丈夫。今日は全部終わってるから」

得意そうなクザンが指差すデスクには、大量に積まれた書類。それが全て処理済だと言うもんだから、とうとう暑さにやられたかとボルサリーノは心底悪友が心配である。

「ク、クザ〜ン…」

「そんな目で見なさんな。俺、至って健康だから」

あの夜から気付けば早四日。デスク横に設けられたロッカー内には見慣れた白いコートが綺麗にかかっている。小さめのコートが背負う大きな文字には、もはや同情すら感じていた。意図して執務室にこもっていた自分は少々情けなくも感じるが、結果的に全ての仕事が終わったのだからまあ良いかとクザンは一人ごちる。

「あれくらい、持って行ってあげれば良いじゃねぇかぁ〜」

フルタイムでこもっていたら、それはもう超絶に暇な訳で。その場が執務室なればまた尚更である。

「俺、そこまで大人じゃねぇから」

補佐官の視線を感じながらうつらうつらとペンを走らせていたら、既に4日も過ぎており、図らずも真面目に仕事をしてしまったクザンはとうとう暴挙に出たのだ。あの時見せた悲しげな表情の訳だとか、それこそあの夜の奇行の訳だとか、聞きたい事は山程あるが今はただサラ本人が気に食わない。

「何で取りにこねぇー訳?」

「そりゃあサラは新人君の育成要員だからねぇ〜。コート着て遠征に行かない限り、必要ねぇだろォ〜」

ボルサリーノはため息混じりにそう言うと残り少ない紅茶を飲み干して、カップをソーサーに戻した。奥から姿を表した秘書に、御馳走様の意を込めてニッコリ笑い立ち上がると、腕を組んで考え込むクザンにサングラス越しの冷たい視線を送る。

「にしてもだな、ちゃんと手元に置いとかなねぇとマズイでしょうよ、あれは」

「わっしはクザンのイカれた頭の方が、よっぽとマズイと思うけどねぇ〜」

最もちゃんとしていない男が何を言うか。何か言いたげなクザンを余所に、出口に向かいドアノブに手を伸ばすボルサリーノは、些か嫌気が指している様だ。ボルサリーノが回すより先にノブが回り、ガチャリと扉が開くと不貞腐れた顔が覗いていた。

「ォ〜、サラ〜。クザンのバカがお待ちかねだよォ〜」

冷やかす様に言いながら親指が差す先には、サラにとって最も会いたくない人物が、これまた不貞腐れた顔で睨んでいる。

「ボルさん、もう行っちゃうんですか?」

「ごめんよォ、サラ〜。わっし、今から遠征に出ないといけないんだよォ〜」

ボルサリーノはサラの肩をポンッと打つと、まあ穏便にねと耳打ちし、やれやれと言わんばかりにため息をつく。サラはクザンに近付き敬礼すると、お呼びでしょうかと威嚇するかの様な口振りで言った。

「まあ、座りなさいや」

すとんと向かい合わせに座り、対立し合う二人の視線。ボルサリーノは心底関わりたくないと、静かに退室したのだった。


「…さて、だ…」

「何でしょうか?」

ボルサリーノが退室し静まりかえる執務室。何度も居心地の悪い静寂を打ち消したのはクザンだった。

「コート、何で取りに来なかったんだ?」

「私は滅多に出港しませんから。さして必要ないんです」

「にしても、コートは常に手元に置いとかないとマズイでしょうよ。何があるか分からねぇ訳だし」

「では、大将のコートはどこにあるのでしょう」

奧にいたはずの秘書の姿が見えず、それ所か気配すら感じない。二人きりの室内で、皮肉げに笑うサラにクザンは何も言えず目を逸らせた。コートなんて普段使わねぇものと危うく口が滑りそうになったが、間一髪の所で食い止める。クザンは眉を潜め、明白なため息をつきながらロッカーの中のコートを手に取った。

「はい、これ」

バサッと無造作に投げられたコートを受けとると、サラはどうもと心ない礼を呟く。受け取ったそれを簡単にたたむサラは、いつものパンツスーツではなく訓練着を身に纏っていた。露出された両腕には無数の細かい傷が目立ち、所々青黒く変色した箇所が痛々しい。

「その傷、痛くねぇの?」

「まあ…痛くないかと言われれば痛いですけど」

あれから後、あの件に関してクザンは何の後日談も知らず、もはや興味すらなかった。廊下ですれ違う度にスモーカーの視線がえらく突き刺さるが、無視を決め込む事にしたのだ。これ以上のイザコザは御免だし、いちを大将として注意したのだからお役御免だろうと諦める。

サラの主張は正直暑苦しくも感じるが、だからと言って海兵が軍を抜ける理由としては充分ではなく、寧ろ成立さえしないとも思う訳で。この激動の時代を生き抜くには、ある程度の忍耐も必要だと結論付けた。

この華奢な腕に刻まれた無数の傷もサラ自身の覚悟の現れならば、内に秘める各々の正義を否定する訳にはいかない。

「まあ、なんだ。あの時は…そのゴメン。俺も言い過ぎた。悲しい顔させて悪かった」

「…あの、おっしゃっている事が分かりませんが?私がいつ悲しそうな顔を?」

互いに秘める信念が違うだけなのだ。否定するつもりも無かったが、かと言って受け入れるつもりもなかった。

「いや、あー…もう良いわ、うん」

「何なんですか」

首に掛けたネックレスを指先で弄びながら無表情で返答するサラは、どうやら機嫌が悪いらしい。

「なんであの夜、あんな事しちゃった訳?…って聞いたら俺、今以上に嫌われる訳?」

「あの夜?…海での話ですか?」

クザンがコクリと頷くと眉間の皺が二割増し、しつこい人ですねと長い髪をかき上げた。

クザンは一人の女にここまで執着してしまう自分が情けなくとも思う。それがまた、可愛げもない皮肉な物言いしか出来ない女なのだから、ますます自分が不思議に思うのだ。自分に寄って来る女は揃いも揃って媚びてくるし、これ程までに拒絶される事は未だかつて経験がない。

黙っていても向こうから近づいてくるのは、自分が大将の地位についているからだと薄々感じてはいたが、彼女自身も中将の地位にいる以上、他人に媚びる必要性もなければ、そんな私利私欲を貪る器ならばこの若さで中将ポストになど伸し上がれなかっただろう。

確立された信念と強さは、時として人を意固地にしてしまうのだ。強さと信念で武装して、来るものさえも威嚇する。そんな窮屈な生き方をクザンはしたいとも思わなかった。寧ろ、彼女自身はそんな理屈より、他人に依存する事自体に必要性を感じていなかったのかもしれない。他人に依存せず、自身を明確にさせた女ほど、扱いに困る事はないのだ。

「俺やっぱり、サラの事嫌いかも」

「奇遇ですね、私もです」

サラは片側の口角を上げせせら笑いを浮かべると、すっと立ち上がり敬礼した。あちこちが汚れた訓練着には不釣り合いなネックレスがきらりと眩しい。ふと時計を見ると、終業時間が五分程過ぎていた。

「コート、ありがとうございました。青雉大将」

そう言えば明日は休みだと、踵を返しドアへと向かうサラを見ながら思い出す。珍しく仕事も終わり、口煩い補佐官が元帥の執務室から帰って来る頃。今日はこのまま定時で帰れそうだ。

「あ…大将」

「んー、何?」

クザンは凝り固まった全身をほぐす様に背中を反り、両腕を上げてソファーにもたれ掛かった。バキバキと骨が鳴り、一日の疲れをドッと感じる。

「あの時。別に私は死のうとした訳ではないんですよ」

「じゃー何よ」

交わらないこの関係を面倒臭いと諦めた。交わらないものはどうやってしても交わらないし、無理矢理交わらせようとすれば余計に混濁してしまうのだ。



「海に映る月があまりに綺麗で、触ってみたかっただけです」



「…はぁ?」



「自ら死のうとはしませんが、もし触れたその先に死があるんなら、私は死を怖いと思いません」



サラは振り返らずに一礼すると、静かに扉を閉めた。しんと静寂を取り戻した室内が、黄昏色に染まる。



「はぁ。めんどくさい女だな」



それは自分にも言える事だと気づいたが、意固地なクザンはあえて口には出さなかったのだ。


To be continue…

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