本棚/長編

□追求
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最悪である。

胸の辺りから込み上げる胃酸、割れるほどに痛む頭、しわくちゃになったスーツ。どれもこれもが最悪なのである。メイクを落とさず寝てしまったせいで、マスカラの塊が目に入りゴロゴロと不快感。

「あー…水…」

サラはベッドに張り付いた体を無理矢理にひっぺがえし、皺になったジャケットを脱ぎ捨て、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを嚥下した。

「はぁ…おいしー…」

オススメの酒が入ったとシャノバに言われ、非番前夜の時間を有意義に過ごそうと、迷わずボトルキープした所は鮮明に覚えている。お腹が空いたと言ってクレアにリゾットを作ってもらい、食べた記憶ももちろん鮮明である。しかし、四杯目以降の記憶が見事な程に曖昧で、どうやって自宅まで帰って来たのかなど全く分からなかった。

「お金…払ってないよね…」

ふとテーブルを見るといつもの定位置に自宅の鍵もなく、ベッドの下にはヒールが転がっている。慌ててバックの中身を確認すると、どうやら貴重品は無事らしい。首もとに触れると硬い感触が手に当たり、ひとまず安堵する。とりあえずシャワーを浴びてこようと玄関横のバスルームに向かうと、ドアに備え付けられた郵便ポストに見慣れたキーホルダーがちらついていた。

「…え?鍵…どう言う事?」

ポストを開けると自宅の鍵と朝刊が入っている。そして何より不思議なのは、床の上に自分のではない万年筆が落ちている事だった。自分が使う物よりもはるかに大きいそれは、男性用だろうか。サラは昨夜の記憶を一から振り替えるが、何一つまともな記憶が残っていなかった。

「誰のよ、これ」

転がる万年筆を手に取ってまともに開かない目でよく見ると、海軍マークにKの文字。シルバーのボディに青いラインが入った、いかにも男性用の万年筆。確かボルサリーノも同じデザインの色違いを持っており、大将に昇格した際にセンゴク元帥から貰ったと言っていた気がする。

「K…青…え!?」

以前ボルサリーノから万年筆を借りた時の事をよく思い出すと、彼の使っていたものはシルバーのボディに黄色いライン。そしてBの文字が刻まれていた。デザインもサイズも、そしてメーカーまで同じとくれば、この万年筆の持ち主は一人しかいない。

「なんで青雉大将の万年筆が転がってんのよ」

借りた記憶もなければ、ここ最近同じ職場にいながら顔すら合わせてもいなかった。しかし、よく考えてみれば、今の現状は如何せん奇妙なものである。まず自宅の鍵がポストに入っている事も不可解であるし、第一サラ自身、酔い潰れればその場で寝入ってしまう質であり、記憶を全く残さずに自宅へ帰って来た事など、今の今まで一度も無かったのだ。

「まさか…ね。うん、それはないない」

あのバーに青雉が来て私を自宅に送ったなど、可能性としては低いかとサラは笑う。あの界隈には沢山の店が立ち並び、二人には申し訳ないがあの様な静かな店に青雉が入店するなど考えにくい。きっと綺麗な女性が、最高級のお酒をお酌してくれる様な店にしか興味はないだろうと一人ごちる。転がる万年筆はきっと無意識に拾ったか、自分の荷物に紛れ込んだか、はたまた何かの偶然が重なってここにあると都合良く収めた。

「あ、もうこんな時間」

時刻は朝の八時前。朝ごはんを食べにおいでとクレアに言われていた事を思い出し急いでバスルームに向かい、二日酔いの気だるさと崩れたメイクを排水溝へと流したのだった。










「え!?おばさん、それ本当なの!?」

手製の蜂蜜が練り込まれ、ふわふわと柔らかいパンケーキは正に絶品である。乗せられたホイップが焼き立てのパンケーキの熱によってとろんと溶け、優しい甘さが舌の上に広がった。

「全く覚えてないのかい?」

淹れたてのコーヒーはエスプレッソ。濃縮された香ばしい苦味がパンケーキの余分な甘さを消してくれる。

「……うん」

「ったく、困った子だねぇ」

クレアは少し呆れた様に笑ってサラの前にサラダボールを置くと、ドレッシングの種類をジェスチャーで問いかける。サラはフレンチドレッシングを指差して、クレアの隣で愛煙を燻らせるシャノバに事の真実を問うが、全てが事実だと言わんばかりに苦笑した。

「あぁ、最悪だ。有り得ない」

「私達が大将さんに頼んだんだよ。そのまま寝かせてあげようと思っていたんだけどね、あのまま寝たら体がキツいと思って」

「あ…うん…おじさん、ありがと」

自分の事を思って頼んでくれた二人を責めるつもりは毛頭ないが、如何せん相手が悪すぎる。よくよく考えてみれば、全てが不可解なのだ。一人で帰宅してポストに鍵を入れる訳ないし、百歩譲って寝ぼけて自ら入れたとしても、上司の万年筆が自宅に転がっているなど、絶対に有り得ない。ペンが独りでに歩いてくるわけではあるまいし。何かの偶然が重なったんだと納得した一時間前の自分が恥ずかしい。

「よりによって何で青雉大将なんだろ…」

「うちの常連さんでね、昨日は久し振りに来たのさ」

そこが彼の定位置だとサラの隣を指差して笑うシャノバ。彼の後ろの棚にはクザン様と書かれたスコッチのボトルキープが見える。あの大将の事だから、最高級で高額な銘柄にしか興味ないだろうと勝手に思っていたが、キープされたスコッチは割りと庶民的なランクの物。あと指一関節分しか残っていないボトルの横には未開封の同じ物が置かれており、本当に常連なんだと溜め息がもれた。

「にしてもサラ、クザンちゃんは本当に良い男だねぇ。私があと20歳若けりゃ惚れちまってたよ」

今の絶望的な現実を前に、唯一の救いはクレアの豪快な笑い声である。

「そう?ただの偏屈者よ。私、嫌いだわ」

サラが不機嫌そうに言うと二人は顔を見合わせて意味ありげに笑ったが、その意味を問いかけても何でもないよと流された。

クザンに対し、悪い人間だと思った事はない。思った事はないのだが、どうも苦手なのだ。人の心に土足で踏み込んでくるようなデリカシーの無さ、いつものらりくらりと仕事から逃げ、極めつけは女好きときている。それなのに背負う覚悟は海軍最高戦力。全てが苦手なのである。

「あぁ美味しかった。ごちそうさま。おばさんのパンケーキはいつ食べても最高に美味しいわ」

汚れた食器を重ね、勝手知ったるなんたらで洗い物をしようとしたが、良いからゆっくりしてきなと止められた。

半分程残したコーヒーに口づけてカウンターに突っ伏すと、何とも懐かしい安堵感が身を包む。優しく微笑む二人がいて、変わらない時間がただ穏やかに過ぎる。明日の出勤は最高に憂鬱だか、全てを意識の奥に散らせて、この安堵に浸ったのだった。










「大将青雉。先日は大変失礼致しました」

大将黄猿の執務室でサラが深々と頭を下げると、ボルサリーノと紅茶を飲んでいたクザンは、その様子をちらりと横目で見るや否や、わざとらしく盛大に溜め息をついた。

「もう少し加減して飲みなさいや。覚えたてのガキじゃあるまいし」

「ちょっとクザァ〜ン。もう少し言葉を選んだらどうだぁ〜い?」

クザンはいつもの嫌味じみた言葉が返って来ると思っていたが、一向に返事のないのを不審に思いサラを見やると、小さな声で失礼致しましたと呟いた。

「ちょっと何!?熱でもある訳?」

「クザァ〜ン。どうして君はそんな事しか言えないんだぁ〜い」

ボルサリーノはまあ座りなよと空いた席を指差すが、サラはそれを断り深々と頭を下げると、踵を返して扉に向かう。

「サラ〜。演習まであと30分はあるだろォ〜?お茶でも飲んで行きなよォ〜」

「いえ、休み明けは書類が溜まってますので。あと青雉大将、忘れ物です。私の自宅に落ちていました」

「あらら、やっぱりサラんちだったか」

テーブルの上に万年筆をそっと置き、やや伏し目がちに敬礼すると、珍しく着用した正義のコートを翻して執務室のドアに手をかけた。バタンと重い扉が閉じると、隔てた向こうから細いヒールが床を打つ音が響き、それが段々と遠くなる。静けさを取り戻した執務室では、だらけたように天井を仰ぐクザンに対し、笑いながらも眉間に皺を寄せるボルサリーノが、若干の覇気を放っていた。

「……何よ」

「何じゃないよォ〜。何でもっとこう普通に話出来ねぇかなぁ」

「それはサラだって同じじゃねぇかよ」

そう言って冷えたコーヒーを飲み干すクザンをボルサリーノはサングラス越しに見て、呆れたように溜め息をついた。ボルサリーノは二人が似た者同士に思えてならなかったが、それを言えば目の前の同僚は手にしたカップを凍らせてしまうだろうと思い、言いたい言葉をぐっと飲む。

「ところでさ。サラの過去、ボルサリーノは全部知ってる訳?」

「いや、全部って訳ではねぇけども。クザン、どこかで聞いたのかぁ〜い?」

「まぁ…少しな」

シャノバから聞いた話をより明確にするには10年前の記録を引っ張り出せば合点もつくだろうが、クザンは既に興味が無かった。どんな過去があれサラはサラな訳で、可愛いげのなさは変わらないのだ。

辛い過去があるからと特別優しくするつもりもないし、サラがそんな事をされるのを嫌っているのは分かっていた。そんな同情めいた浅はかな行動を取れば、彼女の傷をより一層抉る結果になるだろう。非番だった昨日一日を使い果たし、クザンがようやく辿り着いた結論である。

「ところでサラって能力者なんだろ?どんな能力?」

「そりゃもうドSな能力だよォ〜。いずれお目にかかれるんじゃないかぁ〜い」

「ドSって…あんまりお目にかかりたくねぇーな」

窓から心地良い風が舞い込んだ。残暑が厳しいと言えど、舞う風は秋の香りを孕んでいる。時計を見ると、始業開始五分前。

「さて…と」

ボルサリーノはゆっくりと立ち上がり、自分のデスクから書類を取り出すと一部をクザンに渡し、さあ行こうかと笑う。クザンは渋々それを受け取るだけで目を通すこともせず、雑に丸めてズボンのポケットに捩じ込むと、のっそりと立ち上がった。

「今日の会議は逃げられねぇな」

「どの会議でも逃げちゃ駄目だろォ〜」

テーブルに置かれた万年筆をベストに差し込み、ソファーの背もたれに掛けたコートを羽織ると、会議室へと向かうボルサリーノの後に続く。始業開始の鐘が鳴ったと同時に、執務室のちょうど下に位置する屋外演習場からはサラの怒号と新兵達の悲痛な叫びが聞こえ、相変わらずのスパルタに二人は同時に顔をひきつらせたのだった。

「今日もスパルタだねぇ〜」

「俺さ、サラの上司で良かったと心底思うわ」

「オ〜…、わっしもだよォ〜」



To be continue…

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