本棚/長編

□後悔
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「では、先日頼まれていた書類、こちらに置いておきます」

「あぁ、ご苦労だったな」

サラは書類の束を元帥のデスクに置き敬礼すると、センゴクはそう固くなるなと笑うが、サラは仕事ですからと襟を正した。

「ぶわっはっはっは。サラは変わらんのう」

「サラ、今は私達3人だけだ。茶でも飲んで行け」

時刻は午後五時半。演習も終わり、本日の日報と頼まれていた書類を抱えて元帥の執務室を訪れると、何やら香ばしい香りがサラの鼻を掠めた。上質なソファーに深く腰を沈めたセンゴクとガープの前には、湯気立つ湯呑みとこんがり黄金色に焼き上げられた堅焼き煎餅が置かれている。

ガープが豪快にそれを噛み砕き、欠片を飛ばしながら特徴のある笑い声を上げるとセンゴクは眉をくもらせ、秘書が用意したであろうフキンをガープに投げた。恐らくは自分で拭けと言う意味合いなのだろうが、ガープは構わず次の煎餅に手を伸ばす。センゴクは諦めたように溜め息を漏らし、自分の足元で寛ぐ仔ヤギを撫でるが、その様が妙に微笑ましく思えてサラの緊張の糸がプツリと切れた。

「じゃあ…ちょっとだけ」

「おお、一服して行け」

「おいガープ。ここは私の部屋だぞ」

サラは肩に掛けたコートを簡単に丸めて空いたソファーに座ると、茶で良いかと差し出された湯呑みを受け取り、息を吹き掛けながらゆっくりと啜る。

「ん…おいし…」

熱すぎず、温すぎず。温すぎては茶葉本来の香りが充分に抽出されず、逆に熱すぎても新鮮な香りを殺してしまい茶葉の渋さだけが強烈に抽出される。啜ったお茶はどれをとっても完璧で、思わずホッと息が洩れた。

「はぁー…落ち着きます」

「この頃サラは少し働きすぎだ。前の休みはいつ取った?」

「…三週間前…でしょうか」

久しく取っていなかった非番がいつだったかと記憶を辿れば、頭の奥がキンとする。不覚にも寝顔を見られ、引っ越し後の片付けさえも満足に出来ていない自宅に、最も苦手とする上司が上がったのである。サラはこの三週間、なるべく思い出さないように仕事に没頭し、ようやく忘れかけていたのだが、センゴクの言葉に不快な焦燥感を感じて後悔の念に押し潰されそうになった。

「サラ、明日から休め。三日間の休暇を与える」

「げ、元帥!!明日は新兵の実戦演習です!!」

「あぁ、それなら大丈夫じゃ。わしが変わってやる」

すっと立ち上がり休暇許可書を取りにデスクへ向かう元帥と、ほくそ笑みながら屈強な右腕をブンブンと回すガープを前に、サラは言いたい言葉が出なかった。サラにとって仕事こそが自分の主体であり、休みが無くとも別段苦痛ではない。自宅にいても仕事の事ばかり考えているし、時には仕事を持ち帰る事もある。

寧ろサラにとって、非番の一日をどう消化するかが悩みの種だった。しかし、ここ最近は演習ばかりが立て込んでおり、未処理の書類が溜まってきているのが現状。三日間の休暇があれば容易に片付くと考え、サラは差し出された休暇許可書にサインをした。

「あとサラ。自宅に仕事を持ち帰るのは許可出来ないぞ」

「なっ…」

「サラの事だ。三日もあれば溜まった書類を消化出来ると考えているだろう」

「そ、それなら休暇は必要ありません」

慌てて許可書を破棄しようと手を伸ばすが、サラより先にセンゴクがひらりと頭上に持ち上げて、既に受理したと言う。その様子を見ていたガープはまた煎餅を飛ばしながら豪快に笑った。

「センゴクのおじさーん…」

「なんだ、懐かしいな。昔はよくそう呼んでくれたものだ」

「私、三日間も何したら良いか分かんない…」

「一緒に買い物でも行って、旨いものでも食えば良いだろう」

「…だ、誰と…」

「…サラ、お前…一緒に出掛ける恋人…いやなんでもない」

痛い、痛すぎる。直前まで煎餅を噛み砕いていたガープと、最終確認のサインをしようと胸ポケットから万年筆を取り出すセンゴクの哀れみを含んだ視線が、全身に突き刺さる。ガープは何かを言おうと口を開きかけるが、センゴクの手がそれを阻止し、二人は小さく溜め息をついたかと思えば、少々気まずそうに

「まあ、なんだ…とにかく休め」

と笑った。

「…私、恋人なんて…」

「分かった、皆まで言うな」

ひ孫はまだかとガープの弱々しい独り言はしっかりと聴覚が拾ったが、サラは敢えて聞こないフリを決め込む事にした。普段は絶対に崩さない姿勢も、一度緊張がほぐれると階級を抜きにして、懐かしい空気が辺りを包む。急須から注いでくれるお茶は毎回同じ美味しさが保たれており、ガープがあまりに豪快に煎餅を噛み砕くものだから、つい手を伸ばし口に運んでしまったそれも、香ばしくて実に美味しかった。

「いやぁ、懐かしいな。あの頃はティムやシュリの後ばかりを泣いて追っていたサラも、今や中将。サラは年々シュリに似てくるな。バカ正直な所はティム譲りか」

「ぶわっはっはっは。ティムは確かにバカがつくほどに正直な男じゃったな。しかし奴が仕入れた酒は、どれもこれも絶品じゃったわい」

懐かしい話題は尽きる事が無く、幼かったサラの事、亡くなった両親の事、そしてセンゴクとガープの若かりし頃の事など、昔話に花が咲く。

「シャノバとクレアは元気か?」

「相変わらず元気よ。二人と久しく会ってないって寂しがってたわ」

「そうか。そう言えば一年近く行ってないな。ガープ、久し振りに顔を出すか」

「そうじゃな。久し振りに行ってみるか」

クレアは少々気性が荒い所がたまに傷だとか、ティムは無類の酒好きて仕入れた酒瓶を片っ端から開けてしまうだとか、シュリはそれを呆れて笑っていただとか、久し振りに第三者の口から両親の名前を聞き、サラの固い顔が無意識に綻んだ。

耳を覆いたくなるような悲鳴に、命途絶える呻き声。生温い出血の感覚と、温もりが引いてゆく両親の体。それが人の死だと悟った十年前、自分に力さえあれば未来はどう変わっていただろうか。

海軍に身を置く者として弱さが罪だとするならば、その弱さを甘んじて受け入れる事は、それ以上の大罪なのだ。何かを守りたいと思うのならばそれ相応の力をつけなければならず、守りたいものは愛する者かもしれないし、己の掲げる正義なのかもしれない。詰まるところ、強さこそが全てなのである。

「そう言えば青雉と何かあったんか?」

「ぶっ…どうして?」

湯呑みに口を付けた矢先、ガープの突拍子も無い言葉に思わずお茶を吹き出してしまった。

「えらく嫌っているじゃないか」

それは私も聞きたかったとセンゴクが続ける。

「嫌いじゃないの。ただね、」

「ただ…何じゃ?」

「いや…うん。苦手なだけよ、何もないわ」

沈みかけていた太陽にハッとして腕時計を見ると、訪室してから早三十分も経過している事に気が付いた。明日から強制的に休みになった以上、せめて今ある仕事の半分は終わらせておきたい。まずは〆切別に書類を整理する事から始めなくてはならないと、サラは湯呑みのお茶を飲み干しながらぼんやり考えた。

「では、私は仕事が残っておりますのでこれで失礼します。ご馳走さまでしたと秘書の方にお伝え下さい」

持ち上がったジャケットをピシッと引きネクタイを締め直すと、本日最後の活力が漲る。おろしたてのピンヒールが少々足に応えるが、ふらつかないように爪先に力を入れて二人に対し敬礼をした。

「サラ」

コートを羽織り踵を返して歩き出すと、ふいに呼ばれる自分の名前。何でしょうと振り返れば、自慢の顎髭を撫でながらセンゴクは言葉を続けた。

「青雉はサラが思っているような男じゃないかもしれないぞ。一番海軍らしくて、一番海軍らしくないのは間違いなくアイツだ」

「あの…つまりはどう言う事でしょう」

「海兵を計る物差しが、強さや能力だけではないと言う事だ」

「しかし、強くなければ何も守れないと思います」

「強さで人を守れても、心までは救えない。元帥の立場である私が口にすべき事ではないが、海兵もたかが人間だと言う事だ。海兵として強くて当然、人間として弱くて当然」

センゴクの言葉に口に出したい反論をぐっと飲み込み一礼すると、ドアノブに手を掛けた。廊下を歩くと海兵達が立ち止まり、緊張した面持ちで敬礼をしてくる。

力を手に入れ、その権限を誰かに振るいたいなどと馬鹿げた事は思っていないが、やはり強さなくしては何も救えない。力こそが正義なのである。人の上に立つ元帥があんな事を言っていいのかとは思ったが、今のサラにとって明日からの休暇をどう消化するかが最大の問題だったのだ。

「買い物でも行こうかな…シャボンディ辺りに…」










「早いもんだな、あれから10年か」

サラが去った執務室は、すっかり静まり返っていた。

「あぁ、早いもんじゃ」

暦の上では秋であるが、残暑厳しい昼間の太陽はその威厳を失い、マリンフォードを茜色に染め上げる。

「わしがあの時、もっと早く着いていればと、十年経った今でも胸が痛い」

「それは私もだ。私があの時、休暇を許可してなければティムもシェリも死なずに済んだかもしれない。サラもあそこまでに強さに固執せず、また別の人生があったろうに」

開けた窓からは少し冷たい秋風が吹き入り、肌にひやりとまとわりつく。

「しかし、あんな事があったからこそサラはあそこまで強くなったんじゃろ」

「自分の弱さを誰かに受け入れてもらう事で人は強くなれる。いくら強さで武装しても、孤独な強さは諸刃の剣。そう思わないか、ガープ」

センゴクはそう言うと背もたれに体を預け、小さく溜め息をついた。そんな様子を見ていたガープは、普段見せないセンゴクの姿に少しばかり戸惑ったが、何事もなかったかのように「そうだな」と笑う。

「要は人間臭さだ。守れなかった罪意識が強さに固執させているのだろうが、行きすぎた観念は悲劇を生む。負の連鎖だ。私も分かってるんだ、そんな事」

海軍に身を置く者として弱さが罪だとするならば、もはや人である事すらが罪だと言えるだろう。

「おいセンゴク。元帥のお前がそれ以上は言うな。どうした、今日はえらく多弁じゃな」

苦楽を共にした海兵が二人、動く口をつぐみ、ただただ水平線に沈む夕日を見ていたのだった。

「今言った事は忘れてくれ」

「分かっておるわ」


To be continue…

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