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□崩壊
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目の前の光景は、正に阿鼻叫喚だとしか形容出来なかった。
「こ、殺してやる!」
「お、お前!何だって言うんだよ!」
地を這い蒼白に満ちた男に、太刀を振りかざした男の影が折り重なる。太陽光をギラリと纏い、滴る血色がクザンの胃酸を持ち上げた。
「どいつもこいつも俺をバカにしてやがる!」
「ひっ…ギャー!!」
振り下ろした太刀は、助けを乞い無様に背を向けた男の体にめり込んだ。男は声にならない声を上げ、耐え難い激痛と苦痛に息を荒げる。一方、太刀を打ち込んだ男は血の気を失い、流れ出す仲間の血をただ力無く見つめていた。最早、この男の心は既に崩壊しているに違いない。
「ちょっとサラ、これはどういう能力な訳?」
「あまり声を掛けないで下さい、気が散ります」
島のあちらこちらで銃声が響き渡る。大将と中将を筆頭に散り散りになった海兵達と、己のプライドを死守しようとする海賊達の怒号が飛び交う中、クザンは能力を発動させているサラから目を離せなかった。サラは長いコートを翻し、自分に飛び掛かって来る海賊二人に手を翳す。
「二人で殺ってちょうだい」
サラが神経を集中させ瞳を閉じると、二人の男はビクリと体を震わせて互いの首を掴み合う。その手は小刻みに震えており、気道が狭まったせいでくぐもった叫びを短く吐き出している。二人の男は涎を垂らし、サラが「オーケー」と呟くと同時に気絶した。
「うわー…。サラ、殺しちゃあ駄目でしょうよ」
「殺してなんかいませんよ、殺し合う前に能力を解除していますから。そんな事より戦闘中ですよ、青雉大将」
クザンが視線を前方に戻すと薄ら笑いを浮かべた男が二人。確かパラミシア系の能力者だったか。二人合わせて懸賞金五億ベリー越え。もう少しサラの能力を楽しみたい所だが、どうやら悠長に傍観者でいさせてくれないらしい。クザンは面倒くさそうに溜め息を付くと、意を決した様に凍りついた右手を振りかざし、二人の賞金首へと飛び掛かった。
「…いつもそのやる気を出せばいいのに…」
サラが呟いた言葉はクザンの耳に入る事はなく、男達の怒号の中に消えていったのだった。
「青雉大将殿。護送船が着港しました」
「あーそう。あー…あれだ。適当にブチ込んでてー」
「賞金首が一人まだ…」
「あー大丈夫。サラが捕まえたって連絡あったから。もうすぐこっちに来るんじゃねぇーの?」
陽が傾いて人の影が延びてきた頃、クザンはデッキに置かれたビーチチェアに大きな体を委ねていた。真っ赤な夕日が海岸線に沈み、海面はキラキラと輝いて一日の終わりを告げる。本部を出港して三日。寝酒にと隠し持っていた酒瓶が全て空になった事を思い出し、クザンはのそりと立ち上がった。
「あ、あの…」
「何よ」
「どちらへ?」
「あー…あれだよ、可愛い部下を迎えに行こうかな…とな」
「ああ、そうですか。それなら結構です、安心致しました」
確か街の中心部に割りと大きな酒屋があったはず。呑み慣れたあのスコッチなら定番だしきっと置いてあるだろうが、この島は確かラム酒が有名だったはず。あまり好まない酒類だが、ブラックショコラとラム酒のコンビも悪くない。ドライフルーツなんかも割りにイケる。若い頃、当時の上司にラムは海賊の呑みもんだと教えられたが、海兵だろうが海賊だろうが味覚は同じ訳で。
「まあ旨けりゃそれで良いわな」
「は?何か?」
「あーいやいや、何でもねぇーよ」
口煩い補佐官が居なければこんなにも仕事が捗るのか。人には多少の息抜きが必要な訳で、何かにつけて苦言ばかりを口にする補佐官が、クザンにとっては日々のストレスの元凶だった。
「シェル補佐官殿からくれぐれも青雉大将を頼むと仰せつかっておりますので、私には責任があります」
「あーそうだな。君はよく頑張ってるよ、君…は…誰だっけ?」
「カインでございます!!」
若い海兵は全身に力を込めて敬礼する。暑苦しい所こそ似ているが、人の言葉に疑いを持たない素直さには割りと好感が持てる。第一、補佐官の定例会議とかで今回の討伐任務に同行出来ないからと言って、監視役にこんな若造を寄越す事が間違いなのだよシェル君。クザンはあの補佐官に勝った様な満足感と、心地良い解放感で非常に上機嫌であった。
「君の頑張りは評価する。今度、センゴク元帥に言っておこう」
「ハッ!有り難き幸せでございます!」
「あーそれと…」
「はい、何でしょう」
「君は少し人を疑う事を覚えた方が良い。これは上司としてではなく、人生の先輩としてのアドバイス」
「………?」
目を丸くする新兵にその内分かると付け加え、軽く手を振った。身軽になった所で陸に降りたクザンは、財布をコートの内ポケットに入れている事を思い出す。しまったとは思ったが、ズボンのポケットを漁るとグシャグシャになった二万ベリーが手に当たる。取り敢えずこれだけあればお目当ての品は買えるかと、長い足を一歩進めた時だった。
「青雉大将、どちらへ?」
「うわっ、出た」
野放しになっていた最後の賞金首を拘束し護送船に明け渡したサラが、スーツの汚れを払いながら冷やかな視線と共に冷やかな嫌みを口にする。
「出たってなんですか、失礼です」
「じゃあ…出やがった」
「…もう結構です」
サラは街へ行こうとするクザンとは真反対に足を進め、タラップにピンヒールを掛けた。カコンと細い音を鳴らせ、長い黒髪を潮風に靡かせるサラはいつもの事だと表情一つ変えず、溜め息一つ。
「大将殿!中将殿!」
そんないつものやり取りを終えた矢先、どの海兵の声だか認識こそ出来なかったが、ただならぬ叫び声が響いた。咄嗟に振り向いたと同時に体が無意識の防御反応を示す。
「へへへ、海賊に隙見せちゃあいけねぇぜ」
汚ならしいこの男は、拘束した海賊団のクルーだろうか。ドス黒く変色した短刀を振りかざし、二人めがけて飛び込んで来る。
「あらら。まだ残っていたのか」
クザンは背を軽く反りはらりと避けると、同じくサラも喉を反りはらりと避けた。勢いが暴発しタラップへ飛び込んだ海賊は、空に飛ぶ小さな物を瞬時に掴む。
「なんだこりゃー」
海賊の手には短刀に引きちぎられた金のネックレス。
「返しなさい」
「なんだい、お姉さんのかい。こりゃあまた古臭い」
「早く返しなさい」
「お姉さん、俺らとは違って安定した御収入があるんだろうよ。こんな古臭いのは棄てて、もっと流行りのモンを買えば良いだろう」
海賊はネックレスから手を離し地面に棄てると、汚れた革靴で無遠慮に踏みつけた。グリグリと踏みつけ、砂埃と共に下衆な笑い声を上げる。
「オイ、いい加減にしとけよ。ナメたことしてると…「ギャウン!」…!?」
クザンの言葉を裂くようにサラの体が飛び上がり、細い膝が勢い良く海賊の顔面にめり込んだ。耳障りな叫び声と共に骨が砕ける音とそれに伴う血飛沫が、サラの白いパンツを赤く染める。
「ちょっとサラ!ストップ!」
クザンの制止の声など耳に入っていないサラは、ただ無表情に瀕死の重症を負った海賊の襟を持ち上げ、無抵抗のその体に重い拳を打ち込んだ。打ち込む度に骨が砕け、目を覆いたくなる程の赤を吐血する男が最早虫の息だと、その場にいた全ての者が察していた。
「待て、サラ!正気に戻れ!」
女性と言えど中将の暴走を止められる海兵などおらず、誰もが尻込みしていた中、クザンが慌ててサラの腕を掴んだ。しかしそれでも暴走は止まらず、クザンの手を振りほどき尚も拳を上げる。
「マジで止めろ!死ぬぞ!」
「殺せば良い、こんなクズ!」
クザンは目一杯の男力でサラの両腕を拘束するがサラの興奮は覚めず、女性とは思えない力で振りほどこうとする。
「離せ!こんなクズ、生きてる価値も無い!」
「待て待て待て!取り敢えず落ち着け!」
クザンはサラの腰を脇に抱え近くにいた海兵に後始末を頼むと、無理矢理船室に引きずり込んだ。
「落ち着いたか?」
自分の船室にサラを引きずり込んだクザンは、曲がったネクタイを直しながら冷たい床に腰を降ろした。
「…すみませんでした。もう大丈夫ですので、これを外して下さい」
両手足を氷の鎖で拘束され床に体を沈めたサラは、冷たくてかなわないと言うがクザンは駄目だと一喝する。
「サラ、いい加減にしろ。全員生かして護送しろと、センゴクさんから言われているだろう。もう少しで殺すとこだった」
「すみません…」
「それに覇気まで出して。防御の以呂波も知らないようなあんな小物に、あれ程の拳を打てば命に関わる事くらい、馬鹿でも分かるぞ」
血だらけになった白いスーツが生々しい。鎖の掛かったサラの拳はうっすらと血が滲み、心なしか腫れている様にも見える。長い髪は乱れ、グロスを差した唇に張り付いていた。
「…そんなに大切なモンなの、あのネックレス」
「…いえ。あの男が言うように、また新しい物を買えば良いだけですから」
「…そう」
サラの瞳は今にも泣きそうで、サラは伏し目がちに呟いた。
「取り敢えずその手、手当てしねぇとな」
「大丈夫です、これ位」
「大丈夫じゃないでしょうが。傷が残るぞ」
「本当に大丈夫ですから」
クザンはサラを拘束していた氷の鎖を砕き、船室に備え付けられていた救急箱を手にした。中を開けると消毒液と包帯が少し残っており、満足な処置は出来ないが取り敢えず応急処置にはなるだろうと、傷ついたサラの手をそっと掴んだ。
「女性の手に、殴り傷は似合わない」
初めて触れたサラの手は白く細く、クザンが握ればスッポリと隠れてしまう程に小さかった。
「何やってんの、こんな所で」
あれから五日。護送任務を終えて無事にマリンフォードに帰還したクザンは、事務官から急かされた報告書をデスクに投げて、海岸線沿いを歩いていた。シャノバの店に寄ろうかとも考えたが、明日の朝一にどうしても逃げられない会議がある事を思い出し、渋々帰路に着く。
「呑んでます、ビールを」
「それは見れば分かるけども」
帰り道ふと見た海岸。月明かりに照らされ砂浜に影を写す人物の正体は、やはりクザンの予想通りだった。
「こんなに呑んで。また潰れても知らねぇぞ」
正義が刻まれたコートを乱雑に脱ぎ捨てて砂浜に腰を降ろしたサラの周りには、空になった酒瓶が四本転がっている。五本目の酒をゴクゴクと呑みきったサラは、六本目のビールの封を切った。
「どんだけ買い込んでんの」
「…青雉大将…」
「んー?」
「先日の件、本当にすみませんでした」
立てた膝を抱え込んで顔を埋めるサラが、蚊の鳴くような声で呟く。潮騒にかき消されそうなその声は、少しばかりの悲哀を含んでいた。
「あぁ、もう良い。済んだ事だし」
「危うく本当に殺してしまう所でした」
「今回はまだ良かったけどさ、もし相手が強ければサラだってただで済んでねぇぞ。無鉄砲が一番怖い。新兵の頃にそう教わっただろ」
クザンは転がった酒瓶を纏め、サラの隣に腰を降ろすと、塩辛い風と少しのアルコール臭が鼻腔を掠めた。
「あのネックレス…母の形見なんです。両親のペアネックレスで、二人とも常につけていました」
「形見…か」
「父がつけていたものは海賊に持って行かれました。奪われた父のネックレスを探していたのですが、もう…良いんです」
「何で?」
「いつまでも持っているから私は前へ進めないんです」
加減を忘れ勢い良くビールを喉に流すサラの瞳からは、一筋の涙が零れる。尚も瓶を傾けるサラの手を掴み、もう辞めろと窘めた。
「私、弱い奴が嫌いなんです」
「知ってる」
「でもね。弱さが嫌いな私は実は内心、いつ死んでも良いかなんて、馬鹿な事を思ってるんです」
「死んでも良い?」
「ええ。この喉を掻ききって、父と母の元に行けたら楽だろうなって。要は私自体が弱い存在なんですよ。弱さが嫌いな私が弱いだなんて、滑稽でしょう?」
中将サラと言う女性は、ここまでも気弱な人間だっただろうか。妥協を許さず常に冷静で、それでいて自信に満ちていて。可愛げがなくて、いつも上司である自分を捲し立てる。本部の廊下を颯爽と駆け抜けるサラは、新兵からして脅威ではあるがそれ以上に憧れの存在で。そんな彼女が酒に酔い、自分の隣で涙を流している。時折吹く潮風に長い髪が靡き、細く綺麗な指を絡ませていた。
「サラが死んでも、殺された親父やお袋は喜ばねぇだろ」
「ひょっとしたら、私が死んでも父や母がいる所には行けないかもですね」
「何で?」
「私が弱かったから二人は殺されたんです。あの時私が強ければ、もっと力があれば、きっと二人は今も私の隣で笑っていたはずです。中将の地位を得ても何も変わらない。力があっても心が前に進まない。進ま…ないんで…す…ふぇ…」
途切れる声がクザンの胸を締め付ける。同情だとか哀れみだとか、そんな陳腐な感情ではなくて、何故か心の奥が締め付けられるのだ。
「だから…私…ッ!…たいしょ?」
「もう良い。もう良いから少し黙れ」
咄嗟に抱き締めたサラの体は小刻みに震え、クザンの胸の中にすっぽりと収まった。もう良いからと頭を撫でてやればサラはクザンのベストを掴み、声を押し殺して大粒の涙を流す。一度外れた心のセーブは、最早意味を為さず涙の止め方すら分からない。
「う…うぇ…」
「好きなだけ泣け。どうせ俺しか見てない」
この小さく華奢な体に、どれ程のものを背負っているのか。その夜クザンは自分の胸の中に芽生えた感情を押し殺し、いつまでもサラの体を抱き締めていた。
To be continue…