本棚@

□去りゆく過去
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正義を背負った白い上着をソファーに投げ捨てると、身につけていた武器全てが、けたたましい音と共に散らばる。一日の任務を終えて鼻をつく血生臭い悪臭と共に上着を脱ぎ捨てたつもりなのに、一向に収まらない様を考えると、ソレは体中に染み込んでいるのだとようやく気付いた。

「チッ……」

その臭いが余計に私の精神を乱し、無意識の内に舌をうつ。しかし、その苛立ちは舌打ち所では収まる訳もなく苛立ちに苛立つ悪循環。その上、苛立ちの明確な原因が分からないのだからタチが悪い。

私は戸棚から一番強い酒を取り出し、グラスに注ぐ手順を省いて酒瓶そのまま口をつけた。ゴクゴクと喉を鳴らし咽喉を焼く感覚は、今の私の苛立ちを宥めてくれる唯一の鎮静剤。テーブルの上に無造作に置かれた灰皿と煙草を手に取り窓際に座ると、不気味な程に美しい満月がそびえ、自分が小さい存在なのだと実感させられる。

明かりさえ燈さず月光に身を委ねて…そんな中、不意に自分が可笑しくなった。何をやっているのだと、一体何にこれ程にまで翻弄されているのだと。しかしそれ以上に自分自身が滑稽なのだ。

「あららら…大丈夫?」

「……何がよ。」

背後から聞こえる聞き慣れた声に傲慢な返事をするとその主は静かに私の隣に座り、飲みかけの酒を喉に流し込んだ。

「さやにはキツ過ぎる」

彼はわざとらしく言いながら、渋そうな顔を見せる。

「てっとり早く酔えるからね」

額にアイマスクもつけず、いつものスーツすら着ていないクザンの姿からして今日が非番だった事が見て取れる。月光に反射する長身の男は、そんな私に酒焼けするよと苦笑した。

「それより玄関の鍵が開いてたぞ。さやが強いのは知ってるけど、あまりにも無用心だ」

「あぁ、忘れてたわ。」

いつも自分の事は二の次で、一番に私の事を心配してくれるクザンに、言いようのない安堵感を覚える。しかしその安堵すら私を長年苦しめる後悔の念を、ただひたすらに大きくする原因になっていたのだ。
この苦しみから抜け出そうと、またそれ以上に奴を漆黒の闇から救おうと武器を取ったが、今まで以上に念が積もる。私には安堵などなく、安堵など許されないのか…

「この討伐、俺はスモーカーにふったはずだ。なぜ行く必要がある。中将のさやが出る程じゃない」

全身に飛び散る血飛沫。生温い温度と奴の逝く寸前の表情に寒気を覚えた。もう二度と元に戻れないのなら死を与え全てを無にするのが……

「責任なのよ。十年前、奴を止められなかった私の」

見習い兵の時から追い掛けて、強くなろうとしてみても、奴の足元にも及ばなかった。それ所か私と奴の力量の差は開けてくるばかり。挫折、空虚感、憧れ、淡い恋心。様々な感情が入り交じり、観念と事実が錯誤していた。

「いつの間にか奴より強くなってたわ、私」

「そらそうだろ。軍を抜けた時の奴はたかが大佐。今のさやは中将。差は大きいさ」

遠い昔、恋心が無かったと言えば嘘となる。しかし、憎悪が無かったと言ったら嘘となる。

「今も…奴を思っているのか?」

「もう想いは無いわ。過去を美化しても何もならない。もし想いが残っていたのなら、私は確実に奴に殺されてた」

今こそ過去と決別する時なのだ。淡く美し過ぎる過去を全て切り捨て、私を大切だと言ってくれる大切な人との未来を思うのなら…今。

「何…泣いてるの」

「泣いてなんかないわ」

気付けば瞳からは涙が零れていた。両手は震え、無意識に歯を噛み締める。この感情と涙の原因を、酒に酔っているのだとこじつけた。

「もう終わったんだ、そろそろ楽になっても良いだろう」

そう言って私を抱きしめてくれるクザンの体温が心地良い。

「さやは充分に苦しんだ。もう自分の事だけを考えろ」

その言葉に心の中の何か外れ、一気に溢れた感情を止められなくなった。ただ、嗚咽を漏らしクザンに縋り付く私はこんなにも弱い人間だったのだろうか…。

「さや…」

あの時、私に力があれば奴を止められていたのだろうか。人との繋がりを断ち切って、己の野望の為に生きるなど馬鹿げているのだ。

「十年前に軍を抜けて、海賊に身を落としたアイツを止められなかったのは、決してさやのせいじゃない」

死を与えるのが本当に私の責任だったのか、それが誠正しかったのかは分からない。だが、追い掛け続けた幻影と決別する為にも、これ以上奴の野望にうちひしがれ削られていく尊い命を増やさない為にも、海軍中将として為さねば成らない事だったのだ。

「うん、もう…止めるわ」

―奴を想うさやの気持ちは分かってる。ただ一緒にいさせて貰えないかな―

私が荒れていた頃、クザンが言ってくれた言葉が脳内に木霊する。私が大切にするべきは過去ではなく、現在でもなく未来でもない。今、目の前にいるクザンなのだ。

「もう楽になれ」

お互い男と女ではなく、かつての恋人同士でもなく敵同士、己の全てをかけて戦った。止められなかった自分をこれ以上責めるのは止めよう、そう思えたのもクザンがずっと支えてくれていたからこそ。

「クザン、前に言ってくれた事、返事がまだだったわね」

これから先、何年か経てば奴の事を笑って話せるだろうか。

「あぁ、返事は貰ってない」

己の欲望や野望の為に、人の命を潰した奴は許せない。だけど、

「長い間ごめんね。私を貴方の傍においてくれる?」

奴がいたから今の私がいるのは紛れも無い事実で…

「もちろん。もう踏ん張らなくていい。俺がいるからな」

私の頬を包み込むクザンの手が冷たいはずなのになぜか暖かい。流れる涙を指で拭って優しく微笑むこの温もりが、同じ十年の月日を経ても手の届く所にあって欲しいと、切に願う。

夜空を見上げれば美しい満月。不思議とあの苛立ちは消え失せていた。

「クザン?」

「ん?」




「ありがと」




end

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