本棚/長編

□腐食
1ページ/1ページ


夜の帳が下りて、神々しい程の月光がマリンフォードを照らす冬の初頭。クザンは冷えた缶ビールを二本手に、人気の引いた廊下を歩いていた。頭上に聳え立つ月は夏の頃より心なしか淀んでいるようにも思える。もうしばらくすれば冬の月になるだろうか。今夜の月は移り行く季節を肌で感じさせてくれる、そんな月だった。

「お疲れー。ほい、ビール」

サウナウェアを身に纏いトレーニングマシーンで走り込みをするサラに軽く手を挙げたクザンは、備え付けられた簡素なベンチに腰掛ける。右側に缶ビールを一本置き、汗を拭いながら近付いて来るサラを待たずしてプルタブを引いた。歩きながら少し乱暴に運んだせいか、プルタブを引いた瞬間にプシュリと音を立てて溢れる発泡性の泡を慌てて吸い上げた。泡が落ち着いた所でゴクリと一口。

「あー、うまい。仕事上がりのビールは最高だな」

「駄目です、こう言うの」

「…とか良いながら開けてるじゃないの」

迷わずプルタブを引いて勢い良く嚥下するサラに呆れたように一瞥をくれてやるも、サラは全く動じずに半分程を一気に飲み干した。

「良い飲みっぷり。オッサンだな」

「本物のオッサンにだけは言われたくないです」

クザンはそりゃそうだと笑い、ズボンのポケットから小さな袋を取り出して二人の間に置いた。

「…するめ…?」

「ご名答」

「正にオッサンですけど、ビールとするめ、悪くないです」

「だろ?」

サラは汗を拭ったタオルを首に掛け、クザンはスーツを着崩しただらしない姿。正にオッサンである。二人はするめを咀嚼しながら手にしたビールを飲みきった。最後の一口を飲みきると物足りなさが残る。クザンは二本ずつ買えば良かったと思ったが、今更買いに行くのは億劫だ。

「足んないじゃないの」

「私、あと二本ビール持ってます」

サラは空になった缶をペシャリと凹ませ足元に置いたバックから、缶ビールを二本取り出すと、お願いしますとクザンに差し出した。

「…何?」

「冷えてないんです、これ」

「俺にどうしろと?」

「ヒエヒエの実の能力者だと伺いましたが」

サラは渡すだけ渡すと興味が無さそうにするめをもう一つ頬張る。普通の女性はカバンにビールなんて入ってないでしょうよと問えば、サラはボルさんからもらったんです、とするめをもう一口。女性らしさの欠片もないと諦観しつつ、発動させた能力で手にした二本の缶ビールに冷気を送る。

「ちょっ、大将!ストップ!凍る凍る!」

「何なの、もう」

程よく冷えたビールを見ると、とある島の名産品。そう言えば、一週間前にボルサリーノがその島に行くとかなんとか言ってたっけなと、このビールをサラが持っている理由に合点がいく。

「ボルさんが人から頂いたそうなんですが、いらないからと」

「あぁ、奴はビールなんて飲まねぇからな」

それ以上に会話を膨らませる事も出来ず、訪れる沈黙のなんと疎ましい事か。ただ無言でビールを嗜む二人にとって唯一の救世主はこのビールの旨さのみである。思えばこのビールは酒好きの間で味わうビールとして定評のある銘柄。クザンが買って来たビールも決して悪くないのだが、味わうには役不足。一杯目は喉越しを楽しんで、二杯目ともなればビール自体の味に酔いたい。はからずも最高の順番で飲めた事を、二人は内心ほくそ笑んだ。

「あぁ、そうだ。お帰り」

「どうも」

あの夜の後すぐに遠征の命が下りたサラは、クザンと顔を合わせる事もなく赤犬の船に乗り込んだのである。サラが帰還した事で死んだ魚のような目をしていた訓練兵達が歓喜の声を無言で挙げていたが、替わりの指導員がガープだと聞き、すぐに冒頭に戻る訓練兵達の様は、今思い出しても笑えてくる。

「加減を知らねぇからな、あの人」

「はい?」

「いや、何でも。それより訓練兵共がお待ちかねだ」

「待ってはないでしょう、彼らは」

「嫌われてる自覚、あるんだな」

「…ええ。青雉大将を嫌いな自覚もありますが?」

こんなに憎まれ口の叩き合いにも安堵する自分がいる事を、クザンは自覚していた。サラが本部を発って約三週間。己の気持ちを整理するには充分過ぎたのだ。執務室から見下ろせる屋外演習場を無意識の内に見遣ってしまう自分は、厄介な病に犯されているのだとクザンは認めざる得なかった。

「あの夜、ありがとうございました」

「あーうん。どうせ俺んち、サラの家の近くだしな。送って行く位何ともねぇから」

「いや、そうじゃなくて」

二十代にして海軍将校、それに加えて女性中将。本来ならば長年中将として実務した者が指導員のポストに推薦される。まして本部の指導員ともなれば尚更本人のキャリアがものを言う。だがサラに至っては小さな支部で少将として指揮をとっていた、謂わば出世組からは突き放された海兵。しかしながら海兵としてのレベルは年長組と比べても引けを取らない。誰もが羨む異例の出世である。誰もが羨み誰もが尊敬し、誰もが認める強さ。

「もう良いでしょうよ。忘れなさいや」

しかしその強さが弱さの上に成り立つならばどうだろうか。己に暗示を掛け、泣くな泣くなと満身創痍。強さばかりに執着し、置いていかれる心の闇。全てが相まって出来上がるのは膨張し続ける虚像の果て。何と不憫でなんと脆いのだろうか。それでも己を奮い立たせ、更に強くともがき続けるサラが、クザンには何より弱く思えてならなかった。いつの世も空を飛び回る鳥達が自由だと言うが、羽を休める止まり木さえも見付からなければ、それは苦の上に成り立つ自由だと言うのに。

「俺ね、サラの事が好きなのかもしれない」

「……は?!」

「いや、好きなんだわ、きっと」

「同情なら…ブッ飛ばしますよ」

「サラに扱かれる訓練兵には同情してるな、俺」

クザンは最後の一口を飲みきって空いた缶をサラの隣に置くと、あとは頼んだと笑った。人が抱く感情の中でも同情とは正に愚劣なそれである。安易な同情は哀れみを量産し、哀れみはなんら意味を為さない。しかし、その同情の中に少しでも寄り添いたい気持ちがあるならばそこに介在するものが、また別の形容と化す。そこに手を差し伸べてあくまで共存を欲するならば、きっとそれは人に温もりを与えるのである。

クザンはその類いの物を真っ向から否定していたが、この三週間の時間が全てを明白にしたのなら、人である以上、男である以上、認めざる得なかったのだ。

「あぁそうだ、これ」

「何ですか?」

「良いから手ぇ出しなさいな」

サラは持っていた缶を置き、クザンの前に手を差し出した。ワイシャツの胸ポケットから取り出した小さな包みは綺麗に巻かれており、慎重に爪を掛けてそろそろと広げれば見慣れた輝きが現れる。

「こ、これ…」

「知り合いに頼んで直して貰ったんだが、サラの出港には間に合わなかった。大丈夫、ちゃんと直ってる」

指で掴みそっと持ち上げると引き千切られた箇所は綺麗に修繕され、更にはしっかりと磨き上げられていた。輝きは見事に戻り、それが父の笑顔と重なって自然と目頭が熱くなる。

「いらねぇっつってたけど、これだけは手離しちゃいけないでしょうよ。はい、貸して」

首に掛かったタオルを取るとクザンはそっとネックレスを掛け、小さな留め具に爪を掛ける。元あった場所に戻ったネックレスを見て、やっぱり似合うと笑った。

「ありがとう…ございます、大将」

「どういたしまして」

クザンはのそりと立ち上がり振り返らず肩越しに手を振ると、お疲れーとだけ呟いて、また暗い廊下へと足を進めたのだった。

今夜の冷気はチクリと肌を刺す。そろそろジャケットの出番かと、自然に丸まる自分の背に嘲笑を送った。







「はあ、美味しい」

「オ〜それは良かったよォ〜」

とある日の昼下がり、サラはボルサリーノと共に束の間の休息を楽しんでいた。ボルサリーノの秘書が淹れた芳香の強いダージリンティは見事なまでのマスカテルフレーバーが鼻腔を掠め、ボルサリーノの紅茶に対するこだわりを垣間見た気がした。

「それよりサラ〜、クザンの奴がサラにお熱だよォ〜」

「お、お熱!?いやいや、ご冗談を」

サラは言葉を詰まらせ、慌てた様にカップに口付ける。勢い良く含んだせいで熱い紅茶が舌を焼き、思わず噎せるサラにボルサリーノはハンカチを渡すと、口角を僅かにあげてくつりと笑った。

「オ〜満更でも無さそうだねぇ〜」

「ボ、ボルさん!お、怒りますよ!」

業とらしく肩を竦めたボルサリーノは、頬を赤らめるサラにごめんよォ〜と笑う。

「で、奴は言ったのかぁ〜い?」

「何をですか?」

「嫌だなぁ、気持ちをだよォ〜」

「なっ!」

「……言ったんだねぇ〜」

あの夜から二週間。次の日から遠征に向かったクザンから報告書が全く来ないとセンゴクがここ毎日ぼやいていた。今のサラにとってクザンと顔を合わせなくて済む事は、何よりの救いである。赤犬との遠征により遅れていた事務仕事も一段落付き、今夜辺りにいつものバーで頭を冷やそうと考えていた。

元来サラは軟派な男が嫌いであった。大将青雉と言えば恐ろしい程の強さと共に、大の女好きだと海軍関係者ならば全ての人間が知る所。縋る女を冷たく捨てるだとか、一夜を過ごせば興味が無くなるだとか、多少尾ひれが付いているにせよ軟派な男を嫌うサラにとって、お近づきになりたくない人物なのである。

「で、サラはどう返事したんだぁ〜い?」

「返事なんて…する間が無かったです」

「オ〜、奴らしいねぇ〜」

「奴…らしい?」

「アイツはねぇ〜好きな女性に対してはものすごぉ〜く、奥手なんだよォ〜」

「奥手!?青雉大将がですか!?」

しかしながらクザンの告白を聞いて嫌な気がしなかった事にサラ自身、小首を傾げていた。同じ海兵として掲げる正義が異なれば、互いの関係性は平行線の一途を辿る。しかし、背負う覚悟は互いに相違なかった。

「サラもクザンの噂は色々耳にしてるだろうけどねぇ〜アイツは相手が本当に好きなら絶対に浮気何てしないし、綺麗な女性がいる店にすら、誘っても来ないんだよォ〜」

「でも、縋る女性を冷たく捨てるとか…」

「そうだねぇ〜、遊び相手にはとことん冷たいかもねぇ〜」

この妙な胸のざわめきを恋愛感情だと位置付けるのは、ひどく短絡的である。ボルサリーノは肩の力を抜きなさいよォ〜と笑った。

「だからねぇ〜、クザンは確かに軟派な所があるけれど、根は真面目な男なんだよォ〜。それは同僚のわっしが保証するよォ〜」

「しかし私は…」

ただ強く。
もう二度と大切なものを失いたくない。強さこそが正義だと。正義とは何をも捩じ伏せる強さだと。長年培ってきた自分自身の土台と心が酷く乱され、心に異常を来す。思わず言葉が淀んだ。

「幸せ…になるのが怖いのかぁ〜い?」

「いえ」

「失う辛さはもう懲り懲り…とか?」

「いえ」

「…もう良いんじゃないのかぁ〜い?幸せになっても」

今膝をつけば自分の全てが崩壊する。中将としてではなく、人間としての自分自身が…である。どれだけ力を得ても、地位や名誉を得ても、何一つ変わらない。サラは自身の脆さに冷ややかな嘲笑を送る。

そう、自分はまだ弱いのだ。

「私はやっぱり…」

「ん〜?」

「私はやっぱり幸せになる資格は無いんですよ、ボルさん」

サラはそう言って付着したグロスを指で拭ったカップをソーサーに戻した。そんなサラを見遣るボルサリーノはサングラス越しで静かに眉を曇らせた。





そう、私はまだ弱い。





To be continue…

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ