本棚/長編
□深淵
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時刻は丁度お昼時。海軍本部の食堂はやけに賑わっていた。
「おっ。大将さん、今日の昼飯は食堂かい。珍しいな」
「まあたまにはね。それより大将とか辞めてよ」
先程まで騒がしかった食堂内が大将の登場で一気に空気が変わる。席に付き食事を摂っていた者全てが起立して敬礼を送ると、クザンは面倒臭いとほとほと迷惑そうに嘆息を洩らした。
「あー、もう良いから食べなさいや」
「ハッ!ありがとうございます!」
この息苦しい空気が煩わしくて、いつもなら部下に執務室まで食事を運ばせるのだが、今日に限ってはトレイを手に注文窓に向かう。白いエプロンを身に纏った顔馴染みに声を掛ければ、いらっしゃいと笑顔で応じてくれた。
「大変だねぇ、大将さんも」
「もう面倒くせぇーよ。料理長だけだわ、気さくに声掛けてくれんの」
「わしはクザン君が新兵の頃からの付き合いだしな。本当なら敬語の一つも使わねぇーといけねぇーんだろうが…どうもなぁ…」
「敬語とか辞めて下さいや。俺と料理長の仲でしょうよ」
「そいつはありがてぇ」
クザンはトレイを台に置きスプーンとフォークをセットすると、日替わりメニューが書かれたホワイトボードに目をやる。
「B定頼みます」
「はいよ。いつもの大盛りかい?」
「もちろん」
財布を執務室に忘れた事を思い出し、ジャラジャラと煩いズボンのポケットに手を突っ込んだ。無造作に放り込んだ小銭を掴み取り手を広げると大方1000ベリー位はある。どうやら事なきを得たようだ。
「あいよ、オムライス定食毎度あり」
「ここ置いとくわー」
カウンターに700ベリーを置きトレイを手にしたクザンは料理長に軽く礼を言い、奥の席へと足を進めた。遠征を無事に終え、本部に帰還して4日。どうやら本部では面白い話で持ちきりの様だった。
「オイ、聞いたかよ、サラ中将が赤犬大将と船に乗った時の話」
「あぁ聞いた聞いた。あれ、マジかよ」
「マジもマジ。大マジよ。真顔で止めを刺すんだと」
「うわー、おっかねぇ」
其処彼処で聞こえる噂話。噂話など十中八九真実とは真逆に動くものではあるが、如何せんその殆どが真実なのだから、それはもう噂話などではなく真実の話である。助けを乞う海賊の腹を蹴り飛ばしただの、反抗する海賊の頭をテトラポットに打ち付けただの、正直どこまでが真実なのか分からないが、サラならどれもありそうだと可笑しくなる。
「嫌われたな」
一番奥の窓際の席。トレイを置いて椅子を引くと、長い足を折り曲げた。腰を下ろした瞬間に突き刺さる視線は、意識の奥に散らせる事にした。
「どいつもこいつも腑抜けなだけです」
クザンと対面側に座るサラは掛けられた声に見向きもせず、スプーンの先で卵を割く。割いた瞬間に程よく加熱された半熟卵がとろりと垂れて、ケチャップライスに絡み合う。
「あー腹減った。頂きます」
スプーンを親指と人差し指で挟み、大きな手を合わせて軽く目を閉じた。出来立てのオムライスを一匙口に放り込めば、少しの酸味とスパイスの刺激が空腹にはまる。
「何でこの席なんですか」
「んー?空いてたから。うん、旨い」
一口食べると空腹が空腹を呼び、更に一口と欲が出る。A定食の海軍カレーも捨てがたいがオムライスとカレーの2択ならば、やはり前者を選びたい。其れほどに料理長特製のオムライスは人を惹き付ける魅力があるのだ。
「うまいな、やっぱり。これで700ベリーなんて信じらんねぇ」
「700?大将価格ですか?私は550ベリーですけど」
「大盛りだから」
サラのトレイに置かれたオムライスより軽く倍ほどあるそれを半分食べた所でサラダボウルに手を伸ばす。チーズが効いたシーザードレッシングを絡め独特の匂いを放つ黄と赤のスライスをフォークに乗せると、サラのサラダボウルに放り込んだ。
「で?何処までが本当な訳?」
そんなクザンの行動に表情一つ変えず乱雑に放り込まれたパプリカを食べ、飾り切られたトマトを突き刺しクザンのボウルに入れると、クザンも同じく表情を変えずに口へと放り込んだ。
「蹴り上げましたし打ち付けました」
「ぷっ。やっぱりな」
「反抗する海賊共が悪いんです。弱い奴は嫌いです」
「俺たちは弱いもんの為にあるんでしょーが」
食堂の喧噪が聴覚の奥に散る。テーブルを挟んで座る二人の間に妙な空気が流れ、居心地が悪いような良いような。
「大将…」
「んー?」
「お…お帰りなさい」
「お、おう。ただいま」
サラはそれだけを告げると視線を直ぐ様オムライスへと戻した。クザンは聞き慣れない言葉にオムライスを口へ運ぶサラを思わず凝視するが、サラは視線を合わせてはくれなかった。それ所か視線が邪魔だと言わんばかりに嘆息を洩らす。
「サラ、もう一回言ってよ」
「何をですか」
「お帰りって」
「そんな事より元帥が探してましたが。報告書、まだなんでしょう?」
「えー…逃げよ」
クザンが本部に帰還するまでの20日間、結局中間報告もなくそれ所か帰還してから4日経つと言うのに報告書すらまだ未提出だった。事務処理が出来ず、毎月の締めまでに間に合わないとクザンを追いかける事務官も、日に日に眉間の皺が深くなっていくセンゴクも、心底気の毒だとしか言えなかった。
「早く出して下さいよ、全く。元帥が気の毒です」
「帰ってきて休む暇なく追われる俺は気の毒じゃねぇの?」
「自業自得です」
サラはオムライスを平らげてグラスに注がれた水を飲み干すと、顔の前で手を合わせそっと目を閉じる。腹ごしらえも終わり、午後からも新人演習に力が入りそうだ。
「ではお先」
「ちょい待ち」
「……何ですか?」
トレイを持って席を立つサラを呼び止めたクザンは、口元に付いたケチャップを親指で拭うと肘を付いて手にしたスプーンを器用に回した。サラは行儀が悪いと思ったが、一刻も早くこの場から去りたいが為に出かけた窘めを飲み込む事にする。
「今晩ヒマ?久し振りにマスターんとこに行こうと思うんだけど、一緒に行かね?もちろん奢るけど?」
「…仕事をまともにしない人とは行きません」
「あらら。俺、フラれちゃった?」
「えぇ、ふりました」
今日は実践演習だろうか。珍しく演習着を纏ったサラは椅子の背もたれに掛けた防寒着を腕に掛け、では、とだけ告げると返却口へと足を進めた。
「ったく…」
クザンからの誘いに少しだけ心がざわついたのは、奢りを餌に誘われたからとサラは一人ごちたのだった。
「何で来るんですか」
「コラッサラ、大将さんにそんな事いっちゃいけねぇよ」
一月振りに訪れた馴染みのバーは、やはり閑古鳥が鳴いていた。
「ちょ、来ちゃ駄目な訳?!」
クザンの顔を見て名札の掛かったスコッチボトルを手にしたシャノバは、相変わらずダンディズムな色香を纏っている。クレアの姿が見えずシャノバに聞けば、香辛料を仕入れに行くとかでシャボンディまで二泊三日で出掛けていると言う。いつもの豪快な笑い声が聞けないのはやはり物足りなかった。
「何?俺の事待ってた訳か」
「ボルさんから大将がとうとう元帥に捕まったと聞きました」
「…で?」
「きっと逃げられないから今日はもう来ないだろうとふんで、私は来ました。当ては外れましたけど」
「うわー、可愛くねぇ」
「でもこうして会いました。ご馳走さまです。おじさん、伝票一緒にね」
「はあ?!」
いいのかい、と目で問うシャノバに頷いてスコッチが置かれたいつもの定位置へと腰を下ろす。どうやらサラの定位置はクザンの席の二つ隣らしい。目の前のカウンターにはいつものスコッチ。隣に置かれたプレートにはよく乾燥したサラミと、セロリのピクルスが盛り付けられている。今の気分にぴったりの品だ。
「くはーうまい。このピクルス、この酒にピッタリだわ」
「すまないね。クレアの奴が居ないもんだから、こんな物しか用意出来ないんだよ」
「いや充分。これさえあれば何もいらねぇよ。これ、クレアさんの手製?」
「もちろん。サラミもクレアが作ったもんだ」
「やっぱりクレアさんが作ったもんはうめぇわ」
同じくグラスを傾けるサラをちらりと見れば、どうやらカクテルを嗜んでいる様だった。カクテルグラスは紫色に染まりランプの明かりをキラキラと写し出す。色と香りからしてブルームーンあたりだろうか。
「よく元帥から逃げられましたね」
「あぁ、提出書類も報告書も昨日には仕上がってたから」
「なら今日の朝にでも提出すれば良かったでしょうに」
「めんどくせーから」
グロスに彩られた唇がカクテルグラスにそっと触れる度、胸の奥がドキリと跳ねる。この唇も長い睫毛も絹糸の様な長い髪も、そして何よりサラの心をも全て、自分のものに出来れば良いのに。そんな邪念が酒酔を遠ざけるのだ。
「なぁサラ。そろそろ俺の事、名前で読んでよ」
「駄目です。上司ですから」
「じゃボルサリーノの奴はどうなんのよ」
「ボルさんは…良いんです」
「なんだそりゃ」
サラが空になったカクテルグラスをシャノバに渡すとシャノバは飲み過ぎるなよと窘めつつ、慣れた手つきでシェーカーを振る。
「ブルームーンってうまい?」
「えぇ、バイオレットリキュールは全部美味しいです」
アンティークな壁掛け時計を見るとまだ9時を回った所。まだまだ夜を楽しめそうだ。
「サラは俺の事嫌いな訳?」
「ええ、嫌いです」
「ちょっ、泣いちゃうよ?俺」
「あなたは私の心を乱すんです。だから嫌いです」
サラの頬がほんのり色付いているのはバイオレットリキュールのせいなのか、それとも…と思うのは男の都合の良い傲りなのだろうか。クザンはそんな邪念を打ち消すようにサラミを頬張りながら、キツいスコッチを飲み干した。
「何で付いてくるんですか」
「俺は付いてってるんじゃなくて、サラを送ってんの」
あれから2時間。上質な酒と肴に酔いしれた二人はテトラポットが積まれた海沿いを歩いていた。暗い夜道を女性一人で歩かせるのは危ないからとシャノバに頼まれた帰り道、サラはさも迷惑そうに悪態をつく。
「私一人で帰れます。柔な女じゃありませんから」
「うん、知ってる。サラはその辺の男になんて負けないだろうね」
「でしたらもう結構です、一人で帰れます」
「でも駄目」
「何故ですか」
クザンの前を歩いていたサラは振り返り、怪訝そうな表情を見せる。
「マスターから頼まれた俺にはサラを無事に送り届ける責任があるし、それに…」
「それに?」
「世の中にはサラより弱い男が腐る程いるだろうが、サラより強い男も腐る程いるって訳。現にいるからね、サラの目の前に。俺みたいな男に押さえ込まれたら一溜まりもねぇよ」
「…ま、まさか」
「待て待て待て!それは無い!絶対にねぇから!」
自分が言ったほんの冗談に柄にもなく慌てるクザンに可笑しくなる。今までサラにとって女性扱いを受ける事は苦痛と不快の極みでもあった。海兵である以上は女も男も関係ないし、所詮女だと言われる事は何よりの恥であるからだ。ただ強く、ひたすら強く、強さばかりに執着してきたサラはこの類の言葉に嫌悪感を抱いて来たが、何故か目の前の男に言われるのは、決して嫌な気がしないのである。
「じゃあここで。今日はご馳走さまでした」
「あーもう着いたの、はえーな。もっと一緒に居たかった…とか駄目?」
「送り狼になるおつもりで?」
「待て待て待て!そんな不純な男だと思われてんの?!俺は」
クザンは両手を上げて業とらしく降参のポーズをとる。時刻は深夜11時過ぎ。純粋な愛を語るには、少しばかり夜が深すぎる。サラなクザンに一礼し、自宅アパートの階段にヒールをかけた。
「サラ」
「はい?」
「もし…だけど…。もしお袋さんや親父さんを殺した海賊が見つかったら…サラはどうする?」
一瞬でサラの表情が曇り、クザンは自分の口にした言葉を少しばかり後悔するも、一度放った言葉を都合よく無かった事には出来ない。サラは淀んだ瞳でクザンを一瞥し、小さく嘆息を洩らした。
「自分が…怖いです。何をするか、怖い。海兵として正しい判断が出来るかどうか…」
そう言うサラの背には強さの影に脆さが垣間見える。
「では、おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
クザンは小さな背を見送りながら手を捩じ込んだポケットの中で、一枚の手配書をくしゃりと握り潰したのだった。
To be continue…