本棚A
□午後の憂鬱
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「では、書類はこちらに置いておきますので」
時刻は午後3時間過ぎ。ランチを食べた胃も落ち着いて、調度甘い物なんかが欲しくなる、そんな時間。
「お〜ありがとねぇ〜ひなちゃん。あ、あと、これ」
黄色のスーツに身を包んだ目の前の人が、私の上司だったら良かったと心底思う。大きなデスクには書類の山など見当たらず、やっと仕上がった書類を持って来たのに、午前中に頼んでおいた書類が処理済の状態で渡された。パラパラと捲るときちんと記入されており、印字の誤字にまで修正をかけてあるのはどこかの大将と違い、きちんと確認した証拠だろう。
「ありがとうございます、助かります」
「ひなちゃんも大変だねぇ〜。クザンの補佐官なんて、しっかり者の君にしか務まらないよぉ〜」
ボルサリーノさんはデスクに置いていた冷えたコーヒーを飲み干して、気の毒そうに笑った。
「もう慣れましたから」
突然姿を消した上司を探すのも、仕事をしない上司のせいで替わりに怒られるのも慣れた。最近ではセクハラじみたデートの誘いも巧く交わせる様になったのだ。
「本当に気の毒だよ〜、ちゃんと定時に帰れてるのか〜い?」
「定時…それが何時だったかも忘れました」
昨日は確か夜の10時。その前なんか日付が変わっていた。この長い勤務の内、半分以上は消えた上司を探しているのだから心底やってられない。
「あぁ、そうだ。おつるさんに大福を貰ったんだよ〜。良い時間だし、一緒にどぉ?」
ボルサリーノさんはにっこり笑いながら私の前を横切って、戸棚の中の小さな箱を取り出した。ふわりと鼻腔を掠める香水は、私の大好きなムスクの香り。別段ムスクが好きな訳ではないのだが、この香りを感じる度に黄色のスーツを探してしまう。それが恋なのだと知ったのは、つい最近の事。
「そ、そんな。お邪魔じゃないでしょうか?」
「お邪魔なら、わっしはこんな事言わないよぉ〜」
そう言って大将自らコーヒーを淹れようとするもんだから私が慌てて近寄るも、自分がするからとソファーに座らされた。えらく上機嫌で鼻歌を歌いながらコーヒーを淹れるボルサリーノさんをぼんやり眺める。言われた通りに座って待つも、居心地の悪さは超絶でソワソワと落ち着かなかった。
「はい、お待たせ〜」
「あ、ありがとうございます」
コーヒーの良い香りが部屋中に充満し、大好きなムスクの香りと混じりあい、私の脳がとろりと溶けた気がする。差し出されたカップを手に取った時、少しだけボルサリーノさんの手に自分の手が重なり、その箇所がジンジンと痺れていた。
たかが補佐官の私が大将に恋するなんて…どうかしてる。
「美味しい!!大福も美味しいんですが、コーヒーが最高です!!」
「お〜嬉しいねぇ〜」
想いに気付いて欲しいなんて恐れ多いが、大好きな人と、大好きな甘味と、大好きなコーヒー。そんな時間位、あって良いじゃないとにんまり顔が緩んだ。
「ひなちゃん、にやける程美味しいか〜い?」
「はい!!とっても!!」
ボルサリーノさんもカップに口付け、我ながら上出来だと微笑んだ。
ふと窓の外を見ると燦々と降り注ぐ太陽と、目映いばかりのコバルトブルー。きっと今日も定時になど帰れないのだが、こんな素敵なティータイムを過ごせたのだから、逃げる上司を取っ捕まえて、無理矢理仕事をさせようじゃないのとやる気がみなぎる。私が席を外した今、きっとウトウト昼寝をしているだろう上司を、どう起こそうかと考えていた。
「ひなちゃ〜ん。今、誰の事を考えてるんだ〜い?」
「え、あぁ。クザンさんですよ。きっと今頃お昼寝してるから、どうやって起こそうかと…」
苦笑いしながらそう答えると、ボルサリーノさんは少しだけ眉間に皺を寄せて立ち上がり、私の隣に腰掛けた。
「あ…あの…えっ…!?」
体温が感じられる程に近い距離。大人が4人座れる大きさがあるのに私の方に詰め寄って、見上げた顔は少しばかり不満そう。私の心臓はそれだけで高鳴って、緊張のあまり息苦しささえ感じてしまう。
「ボル…サリーノさん?」
「ひなちゃん。わっしといる時くらい、わっしの事だけ考えてよぉ〜」
一向に収まらず、むしろ上昇する鼓動の早さに成す術なく、真剣な彼の目から視線をそらす事すら出来ない。どくんどくんと耳の奥で煩くて、指一本動かせなかった。
「…あの…」
そんな私にボルサリーノさんが何かを言おうとした時、机の上に置かれた電伝虫がプルプル鳴き出した。ボルサリーノさんがさも不満気に受けると聞き慣れた上司の声。
「あー、ボルさーん?うちのひなが帰って来ないんだけど、そっちにまだいるー?」
私は起きていた上司に驚いて直ぐに帰ると言おうとしたが、開きかけた口を長い人差し指に遮られる。ひやりとした指先の感触を唇で感じて目を向けると、もう一方の人差し指を口元で立てていた。
「いや〜わっしの所にはいないよぉ〜」
「あらららら、どーこ行ったのかね、うちのひなは。どこぞの男に捕まってなければ良いけど」
そう一方的に言うとガチャリと眠る電伝虫。
「どこぞの男が捕まえてるけどねぇ〜」
「あの…何で…」
音のない室内に外から聞こえる海兵の掛け声が響く。きっと午後の訓練が始まったのだろう。
「ねぇ、ひなちゃん」
いつもの午後、変わらない平和。
「確か…彼氏いないんだったよねぇ〜?」
いつもと違うのは目の前にいる人と、高鳴る心臓くらい。
「は、はい…いません」
姿を消した上司を探すのは慣れたけれど、こんな午後は想定の範囲外。
「良かった〜、ならわっしにもまだチャンスがあるねぇ〜」
いつも以上に近い距離だとか、いつも以上に香るムスクだとか、
「ひなちゃん、わっしと付き合ってくれないか〜い?」
「え?あ…ボルサリーノさんって…私の事」
チュッと感じるリップ音だとか、
「好きだよぉ〜ひなちゃん」
こればっかりは慣れそうにない。
時刻は午後3時半。
触れ合った唇がジンジンと痺れていた。
end