本棚A
□それは無意味なセレナーデ
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その日、補佐官は非常に疲れていた。美容室に行きたい、買い物に行きたい、女盛りの補佐官はその願望をいつ叶えられるのかとカレンダーを見たが、無残な現実に直面しゾッとする。
「ひな〜、そんな渋い顔しなさんな。キレイな顔が台無しでしょうが」
大きなソファーの背もたれに、だらしなく両腕をかけて天井を仰ぐ大男がひなのストレスを最大限に膨れ上がらせる。渋い顔をしているのは一体誰のせいだと思ってやがると、もう一人のちゃんとした大将のとっておきをイメージして、ひなは渾身の眼力で睨み付けた。
「ちょっ、絶対ビームが出てるでしょ、それ」
「殺意も送ってます、光の速度で」
「あぁ、だから目には見えないんだな」
もう本当にどうしてくれようかコノヤロー。ひなは目に見えないビームをより一層強力なものへと移行させたが、クザンは額のアイマスクをきっちりとつけて態とらしく鼻唄を歌っていた。
終業時間まであと一時間。クザンのデスクの上にはひなが課した、本日のノルマと言う名の書類が未処理の状態で散乱している。換気の為にと少しだけ開けた窓から心地良い潮風が吹いて、立派な山の頂上が一枚だけはらりと宙を舞った。
「……サカズキさんに言いつけます」
「ちょっ、あいつは止めてよ、暑苦しいから」
ふと壁掛けのカレンダーに目をやると、自分の最後の公休が今日で早10日前だと気づく。3日前の公休マークは青いマーカーで「出勤よろしく」と書かれていた。自分ではない字が憎らしい。
「大将は、なぜ仕事をしないのですか」
「んー?仕事が終われば一緒にいられないじゃないの」
「……誰とですか」
「もちろんひなと」
本当にもう、この人は爆発すれば良いんだ。ひなは移動届けを出そうかと本気で考えるが、今の今までその希望が通った事が無いのだ。確かに提出しているのに一向にセンゴク元帥のデスクに届かない理由は、きっと何者かがそれを阻止しているのに違いなかった。
ひなは走らせていたペンをデスクに叩き付けて、クザンの座るソファーに向かい合わせに置かれた小さめのソレに、どかりと腰掛けた。
「あ、あれ!?本当に怒った!?」
「キレるならもうとっくの昔にキレてます。私だって休みたいんです。休みを下さい、仕事して下さい、そして休みを下さい。あと、お願いですから休みを下さい」
「……切実だな」
意を決した様にソファーから立ち上がったクザンが自身のデスクとは反対方向に歩いて行く事など、ひなには容易に予想できた。こんな事でイラついてはこの人の補佐官は務まらないと、超絶にイラついた頭で考える。
先程のクザンと同じくだらしなく天井を仰ぐと、しっかりとセットした前髪が崩れたが、もうそんな事はどうでも良いと諦めた。
「はい、コレ」
「何ですか?今度は私の好物で釣るおつもりですか?」
机の上にコトリと置かれたソレは、ひなの好きな高級店のムースプリン。限定品で尚且つとてつもなく高いソレは、年に数回食べられるかどうか。
小さな容器はおしゃれなレースがあしらわれ、この包装がなければもっと安く買えるのではないかと、もう一人のちゃんとした大将に先日言ってみたひなは、所帯染みた自分を少しだけ恥ずかしく思う。
「ひな、好きだろ?いつもありがとうの気持ちを込めて」
「そう思うなら、裏から私の移動希望届けを破棄するのを止めて下さい」
「んー、それは却下」
悪態をつきながらもプリンの蓋を開けると、バニラの甘い香りが鼻腔を擽る。ひなはこの瞬間が堪らなく好きなのだ。付属のスプーンで小さく掬い、落とさない様にゆっくり口に含むと、口内の熱でとろんと溶けて柔らかい旨味が舌の上で広がる。
「あー…生き返るー」
このプリンは一気に食べずに少量づつ味わうのだと、もう一人のちゃんとし過ぎている大将に言えば、食えば何でも一緒じゃと反抗的にプリンを一飲みしていた。
「好きだなぁ、ひな」
「だって美味しいじゃないですか、このプリン」
「いや、俺はプリンじゃなくてひなが好きだって言ってんの」
「はい、ありがとうございまーす」
適当にあしらいもう一さじ。一日中履いた黒のピンヒールを乱雑に脱ぎ捨て、両足首を回すとゴキゴキと骨が鳴る。血流が一気に増し、浮腫んだ足に本日最後の活力が流れた。
「いや、本気だから」
「はい、どうも」
こんなやり取りも、今ので何回目だろうか。セクハラだとセンゴク元帥に訴えても、堪えてくれと一掃されるのだ。張本人はそれを大将だからと片付ける。海軍の掲げる正義とはこう言う事かとひなは盛大に溜め息をついたが、それは誰にも気付かれなかった。
「この書類、あと2時間で終わらせるから明日デートしてよ。休みあげる」
「では明日は出勤で、次の日が公休と言う事でしょうか?」
クザンは盛大に溜め息をついたが、ひなは聞こえないふりをする。
「ひな、いい加減俺を好きになりなさいや」
その言葉に悪態をついてやろうと前を見るとそこに姿はなく、ひなが怪訝そうな表情をするとヒヤリと頬に冷気を感じる。まとわりつく冷気に驚いて声を上げようとしたその刹那に反転する視界は、背後に回りニヤリと笑う天地真逆のクザンを捉えた。
クザンの両手により持ち上がった顔は首を反り上がらせ、狭まった気道のせいで少しばかりの呼吸困難を引き起こす。その後ひなは確かに、柔らかい温もりを唇に感じた。名残惜しそうに離れる唇は、なんと憎らしいこと。
「なっ!!」
「実力行使。俺の気持ちを蔑ろにするひなが悪い」
そう言って挑発的に笑うクザンに、ひなは不覚にもドキリと心臓が跳ねたのだった。
「どうすれば俺の気持ちを信じてくれるの」
「この全ての仕事を今日中に終わらせれば、明日デートしてあげます」
次の朝、大将青雉の執務室に二人の姿があったとか、無かったとか。
始まる恋。
恋の始まりはいつも唐突だと、
そう相場は決まっている。
end