本棚A
□どうか貴方は笑って
1ページ/1ページ
「あれ、サンジ。もうみんな行ったわよ?」
約二週間振りの停泊。長期間の鬱憤に耐えかねて船長含め、他のクルーはまるで蜘蛛の子を散らすかの様に各々姿を消した。一気に人気を失ったサニー号に柔らかい潮風が吹き抜け、長く伸ばした髪が揺れる。
「あぁ、知ってる。もう少ししたら買い出しに行くよ」
頬を掠める潮風の心地良さと、ランチを終えての満腹感が相重なって、私は一人デッキで微睡んでいた。特に欲しい物もないし、陸地より船上が落ち着く私にとって久し振りの停泊と言えど、別段鬱憤がたまっている訳ではない。寧ろ、のんびり太陽を感じながら微睡む方が、私の性に合っているのだ。
「何してたの?キッチンで」
デッキのベンチに腰掛けていたらガチャリとドアが開き、重たい瞼を抉じ開けてそちらを見ると、カップが乗ったトレイを持つコックの姿。いつもの様に愛煙を燻らせて、趣味の良いブルーのネクタイが潮風に揺られていた。
「ひなちゃんにこれをね。一人で船番、大丈夫かい?」
手渡されるカップは温かく、私の好きな深煎りブラックコーヒー。香ばしい豆の香りが私の鼻腔を掠め、目を閉じて香りの余韻を楽しんだ。
「大丈夫よ。ありがと、サンジ。」
同じ様にカップを手に、私の隣に腰掛けるサンジは、どうやら直ぐに行くつもりはないらしい。二人の間に置かれた小皿には美味しそうなトリュフが乗っていて、サンジは掌をかざし、どうぞと言わんばかりにニコリと笑った。
「うん、美味しい。チョコもコーヒーも」
「光栄です」
心から信頼出来る仲間がいて、いざとなれば頼りになる船長。ずっと一人で生きて来た私にとって、心の平安をやっと手に入れたのだ。逃げる立場こそ変わらないが、そこに仲間がいるだけでこんなにも毎日が楽しいのか。
「私ね、毎日が凄く楽しいの」
境遇が似たロビンも、確かそう言っていた。それと同時に失う怖さも。大切なものを失う辛さはもう懲り懲り。なら守れば良いのよ、海賊だもの。ロビンはそう言ってふわりと笑ったのだ。
「みんながいて、私がいて。散ったみんなもこの船に帰って来る。これって素敵じゃない?」
私はそう言って、また一口カップに口づけた。白い物が視界の端に写って空を見上げれば、孤を描く海カモメ。二羽が仲良く飛んでいる所を見ると、どうやら番いらしい。
「ならなんで、時々苦しそうな顔をするんだい?」
そう言って視線を送るサンジの目は私の心を丸裸にする様で、未だに直視出来ないでいる。そっとしてくれれば良いものを。迷惑な気持ち半分、それでもどこか嬉しさ半分。
「そんな顔、してた?」
「今もしてる」
今まで一人で生きてきたのだ、どんな時も。失うのが辛いなら自分で守れば良いと言う持論はもっともだけれど、これが全て私の夢ならばどうしようもない。夜目が覚めた時、室内に聞こえる二人の寝息が聞こえなくて、いたはずの仲間が消えていて、また一人に戻る喪失感。
繰り返される夜の夢に、私の心は翻弄される。きっとそれは、私の弱さなんだ。
「夜、ちゃんと寝ないと体壊すぜ?」
「ちゃんと寝てるわ」
私は空を仰ぎながら力無く言うと、サンジは嘘が下手だと笑った。
毎夜見る悪夢にも慣れた。どんなにうなされ様が、目覚めれば仲間はいるのだ。いつもの様に、いつもの顔が、いつもの場所に。
「ただちょっとだけ寝るのが怖いだけよ」
夜さえ明けてくれたらそれで良い。太陽は真上に差しており、まだ夜は遠そうだ。
「朝起きて、全てが消えていたらと?」
「まあ…そんなとこね」
サンジは自分が手にしていたカップと私のカップをトレイに乗せ、足元へそっと置いた。カップを奪われた私の両掌はあったはずの温もりが冷え、潮風がえらくヒヤリと感じる。
トレイを置いたサンジは一緒に持ってきた灰皿にまだ長いタバコを押し付け、太股に落ちた灰をパンパンと払いながら、どうぞと呟いた。
「…それってどう言う…」
「膝枕」
顔は前を見据えたまま長い前髪のせいで、彼が今どんな表情なのか分からない。彼の行動に頭がフリーズし、反応出来ずにいる自分は、間違いなく間抜けな顔してる。
「これは全てが現実で、ひなちゃんがこの船に乗っているのは偶然なんかじゃない」
「…必然だったと?」
その刹那、肩を力強く引かれて私の頭はサンジの膝に落ち着いた。少しだけタバコが香り、頬から伝わる布越しの温もりに私の心が安堵する。
「本当は分かってるんだよ。仲間が私の前から消えたりしないって。サンジが私の前から消えたりしないって」
「うん」
「だけどちょっとだけ…ほんのちょっと、怖いのよ」
消え入りそうな言葉に応えるかの様に、私の髪を撫でる大きな手。頭上から感じるサンジの息遣いは、私を締め付けていた鎖をガチャリと外した。
このまま冒険を続けてルフィが海賊王になった後、私は他の何かを見出だせているだろうか。例えばそこに別れが訪れて、忘却の彼方に今の私は在るだろうか。
「俺は何があってもひなの側を離れねぇ。この冒険に限界が見えた時、果てが分からねぇなら何処かでレストランでもすりゃいいさ。俺がコックでひながウエイトレス」
「なに?それは事実上のプロポーズ?」
ナミが言っていた通り、引いていた海が満ちだして、潮騒がやけに耳につく。
私たちはまだ見ぬ未来に想いを馳せる、未完成なパズルのピース。この果てに何があろうとも、ただ前に進むのみなのだ。
「そのつもりで言ったんだが?」
柔らかく吹く潮風と、頬に感じる温もりと、髪を撫でる大きな手。昨夜の寝不足のせいで、瞼が急に重くなる。
「サンジは本当に物好きね」
そう言って目を閉じた私は、少しだけ眠る事にしたのだ。
不思議と眠る怖さは感じなかった。
「おやすみ、ひな」
目が覚めた時、どうか貴方は笑っていて…
end