本棚A
□あなたが満たして
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「はい。これなら仕事しながらでも食べられるだろォ〜?」
良く晴れた日の昼下がり。少し遅めの昼食を済ませたボルサリーノは、小さな紙袋を手に自分の執務室へと戻ると、膨大な書類に目を通す部下にそれを差し出した。
「なんですか?これ」
補佐官のひなが差し出された紙袋を怪訝そうに見つめると、ボルサリーノはどうぞと呟いて、彼女が持っていた書類を取り上げる。
「卵サンドだよォ〜。昼飯まだだろォ?」
取り上げた書類を手に、自分のデスクへと向かうボルサリーノへお礼を言い、新たな仕事に手をつけるひなは渡された紙袋をそっとデスクに置いた。確かにお腹は空いている。そりゃもう限界を遥かに超越した空腹感。しかしそれ以上に困った事態になっていたひなは、例え上司からの心遣いでもそれを食べるつもりはなかったのだ。
「食べないのかぁい?」
「頂きますよ、この仕事が終わったら」
にこりと笑って答えるも、嘘臭い言い訳にボルサリーノは業とらしく溜め息をついて、食べなさいと窘めた。
「最近どうしたんだぁい、全然食べないし…」
「お腹があまり空かないもので」
人間とは不思議なもので、何もしていなくともただ生きているだけでお腹が空く。食べたい欲を忙しさでかき消して仕事に集中しようとも、耐え難い空腹感は五感の全てを麻痺させてしまうのだ。ひなは腹の虫を押し殺すかの様に前のめりに息を止め、心配しているであろう上司に大丈夫ですからと笑った。
「わっしに嘘は通用しないよォ?」
置かれた紙袋から卵サンドを取り出して、ボルサリーノが丁寧に包まれたフィルムを剥がすと、美味しそうな香りがひなの鼻を掠めた。折角我慢していると言うのに、こんな時に限って自分の好物が目の前に現れるのは、もはやミラクルだとひなは考えたが、やはりミラクルどころか拷問だと顔をしかめた。
「体が資本。はい、コーヒー淹れてあげるからちゃんと食べなさいよォ〜?」
目の前に広げられた卵サンドを、恨めしそう見つめるひなを尻目に、ボルサリーノは上機嫌にコーヒーメーカーへ豆をセットする。どうやら今日の上司は、どうやってしても引かないらしい。ひなは諦めた様に卵サンドを頬張った。
「あ、美味し…」
ふわふわな卵とコクのあるマヨネーズが合わさり、薄く切った胡瓜が歯で砕かれて耳の奥で良い音を鳴らせる。パンの耳は少々固いが噛むほどに小麦の甘さが口内に広がり、久しぶりのまともな食事にひなは味の余韻を楽しんだ。
「美味しいかぁい?」
「はい、とっても。でもこれ、競争率の高いサンドですよね?ボルサリーノさん、昼の時間に遅れて行ったのに、まだ残っていたんですか?」
海軍本部の食堂内で売られているパンの中で、この卵サンドは特別人気であっと言う間に完売する。昼休憩になって直ぐに向かわないと手に入らない逸品だが、遅れて向かったボルサリーノがなぜこのサンドを買えたのか、ひなは不思議に思った。
「ん〜、大将権限?」
「ま、まさか…」
「いやねぇ、これを持ってた海兵君にすこぉ〜しだけ光の速さで近づいたら譲ってくれたんだよォ。決して脅した訳じゃないし、ちゃんと別のパンをたくさん買ってあげたよォ?」
あぁ、何て事だ。ひなは犠牲者が不憫でならない。一端の海兵でも自分より遥かに強く、寧ろ住む世界の違う大将に迫られたら、自分でも何の躊躇もなくパンを差し出すだろう。パン一つで身を守れるなら安いものだ。
上司がわざわざ自分のために買って来てくれた事は嬉しいが、この嬉しさは不憫な誰かの上に成り立つ訳で、申し訳ない思いでもう一口サンドをかじる。サンドはとても美味しくて、ひなは心の中で顔の分からない犠牲者にごめんなさいと謝罪した。
「ひな、前はよくこの卵サンド食べてたよねぇ?最近何で食べないんだぁい?」
「……笑いませんか?」
「わっしは今のところ、笑うつもりはないけどねぇ」
ボルサリーノはそう言うとポリポリと頬を掻いた。
「…ったんです…」
「え〜?何だってぇ?」
蚊の泣くような声は聞き取りづらく、ボルサリーノが再度聞き直すとひなは頬を赤く染めて、意を決した様に事情を説明する。ボルサリーノは自分のデスクから立ち上がり、椅子をカラカラと引きずって、ひなのデスクの前に座った。
「ふ、太ったんです。最近。私、食べるのが好きで何も考えず食べてたらスカートがきつくなってまして…体重計に乗ったらもう絶望的な数字が叩き出されました」
「太ったぁ?あぁ、だから我慢してたのかぁ」
そう言えば少し前のひなは割りとタイトなスカートを履いていた。しかし最近のひなはいつもパンツスーツ。流行り廃りに弱いボルサリーノは、きっと今はパンツスタイルが流行りなのだろうと思っていたが、本当の理由はこれだったのかと可笑しさが込み上げた。
「わ、笑わないで下さいよ」
思わず笑ってしまいそうになったが、ひなの可愛い睨みにぐっと耐える。しかしながらボルサリーノから見て、最近のひなが太ったとは思えず、寧ろもう少し食べた方が良いとさえ思っていた。袖から覗く手首も、細い首筋も、強く抱けばどこもかしこも簡単に折れてしまいそうな程、細くて華奢なのに。
「ひなは全然太っちゃいないよォ?寧ろ、もっと食って肉をつけた方が良いように思うけどねぇ」
「嫌ですよ、これ以上太ったらお嫁にいけない」
「ォ〜、お嫁にいく予定があるのかぁい?」
そう言いながらも、あっと言う間にサンドを完食させたひなが可愛くて、ボルサリーノの表情がいつも以上に緩む。ひなは広げたフィルムの上で、手についたパン粉をパンパンと払った。
「それがないから困ってます。いつウェディングドレスを着ても良いように、常に100パーセントでいたい女心です」
「あ、あのねぇ、ひな。世の中の全ての男がスリムな女性が好きとは限らないよォ?」
自分が淹れた甘いコーヒーを啜りながら目を丸くするひなと向き合い、自分もコーヒーを一口飲むと程よい苦味と香りが広がる。
「そうなんですか?でも大半はスリムな女性が好きでしょう?」
「いや、わっしはスリムな女性より、ふくよかな女性が好きだけどねぇ〜」
大好きな女性が太ろうが痩せようが、好きな気持ちは変わらない。そんな事で変わる気持ちなら、それは男がバカなだけだ。男なら見た目の変化さえ愛しいと思うくらいの甲斐性を持てと、ボルサリーノはつい最近若い海兵に言ったばかりだった。
「で、でもお嫁に行けないのはやっぱり嫌です」
「大丈夫〜心配ないよォ?それよりも、仕事が終わったら飲みに行こうかぁ。前に行った所、もう一回行きたいって言ってたよねぇ」
もし君がプクプクに太って、
「いや、だからボルサリーノさん!!ダイエットしてるんですよぉ!!」
お嫁に行けないのなら、
「いいじゃないのォ、太ってもォ〜」
「良くないですよぉ!!本当にお嫁に行けなくなったらどうしてくれるんですかぁ!!」
こっちにおいでと囁くよ。
「ならわっしがひなをお嫁さんにするよォ」
まあ他の男にくれてやるつもりはないんだけれど。
よく晴れた日の昼下がり。ここは大将黄猿の執務室。頬を赤く染めた補佐官はニコニコと笑う上司を前に、無言でカップに口づけた。
「プ、プロポーズ…ですか?」
「まぁ、そうなるねぇ〜」
甘い甘い、
あなたと過ごす昼下がり。
end