本棚A

□溶解性劣情の必要性
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「あー、しくじったぁ…」

誰に向けて言った訳でもない弱々しい声は、鬱蒼とした森に消えていった。上を見上げれば先程まで自分がいた場所がかなり小さく見える。ズキンズキンと痛む足首は、あれよあれよと言う間に赤黒く変色した。

もしかしたら折れてるかもしれない。最悪のパターンを考えたが、そんな事よりもこの現状の打開策を先に見つけないと、治療はおろか本部に帰る事さえ叶わない。ひなは奥歯をグッと噛み締めて、響く痛みを意識の奥に散らせた。

「痛いなぁ、もうっ」

元帥から下された討伐任務は無事遂行。出港までまだ時間があったために、この面白そうな無人島を散策しようとした自分の探求心と好奇心が恨めしい。どちらを向いてもジャングルで、見たこともない草木、そして生き物。しかも珍しい薬草が自生していたのだ。そんなものを見せられては、冒険するなと言う方が無茶な話に思えてならなかった。

「怒ってるだろなぁ、サカズキ大将…」

胸ポケットに収めた懐中時計を見ると、厳守だと言われた出港時間を三分過ぎている。時間に厳しく、一分の遅刻すら断じて許さないサカズキが今どんな顔をしているのか、ひなは容易に想像出来た。

「放っとかれるかなぁ、私」

自分も海兵の端くれだ。片足を怪我した位で立ち往生する程、能力浅はかではない。しかし、それが両足ならば話は別。体を引きずってほふく前進するにしても、恐らく自分がいるこの場所は軍艦を停泊させた海岸とは真反対に位置しているだろう。

さすがに10キロ以上を這って進める自信は無かった。ひなはこの八方塞がりの状況に大きな溜め息をついたが、悲惨な事に誰一人その溜め息を聞く人間はいなかったのだ。

「はぁ…ひな、絶望」

とある上司の口真似も、やはり森へと消えてゆく。

思えばひなが犯した失態の原因は、ジャングルに足を踏み入れた事よりも出港前の時点から間違っていたのだ。日帰りと言えど討伐任務があるのにも関わらず、新しい靴をおろした事がそもそもの始まりで、履き慣れてない革のローヒールは足に堪える。踵には靴擦れが出来て血が滲んでいた。

こんな所をサカズキに見られたらと想像するだけで余りの恐怖に寒気がする。ひなはいっそのこと、この無人島に置いてきぼりにされる方が良いとさえ思った。あのサカズキがわざわざ自分を探してくれる訳はないだろうし、こんな失態を犯してしまったのだから降格すら覚悟しなければならない。降格どころか海軍から放り出されるかもしれない。

「あー困った。食い扶持がー…」

ひなはとりあえず新しい仕事を探さないといけないなと、痛む足を誤魔化すかのように思考を巡らせていた。

「ひな、こんな所で何しとるんじゃあ」

「サ、サカズキ大将!!」

独特の熱気と、踏みしめた小枝が弾ける軽快な音に気付き目をやると、そこにいたのは今一番会いたくない人物。海軍帽を深く被り、目元に影を落とす表情がいつも以上に険しかった。

「し、失礼しました!!あの…これには訳が…」

「お前の言い訳など聞く気はない!!はよう立たんか!!」

立てるものなら立ちたい。いや、もう今直ぐにでも立ち上がりたいのだ。ひなは怒鳴り声を覚悟し、耳の奥に覚悟を決めた。

「あの…実は崖から落ちまして。この通り足が効きませんので、先に出港して下さい」

前に放り出した両足のズボン裾を引くと、先程よりも遥かにパンパンになった足首。右足首は赤黒く変色し、素人目で見てもそれが骨折だと分かる。左足首はそこまでではないものの、やはり見るも無残に腫れていた。

「……お前は馬鹿か」

雷鳴が轟くかの様な怒鳴り声を予想していただけに、掛けられる声の静かさに拍子抜けする。サカズキは溜め息をついて、近くにあった木の枝を持っていたナイフで何本か切り取り、腫れた患部に宛がった。

「歯ぁくいしばっちょれ」

ひなは戸惑いながらも言われた通りにしていると、突如患部に激痛が走る。

「いっ…たっ」

サカズキは枝を添え木がわりに患部にあて、胸に収めていたハンカチを歯で切り裂いて慣れた手付きで固定した。もう片方の足首も固定し、余りの痛みにひなの瞳には無意識に涙が滲む。

「サカズキ大将…ありがとう…ございます」

苦痛の表情を浮かべながら礼を言うと、突如浮かぶひなの体。驚いて素っ頓狂な声を上げてしまい、サカズキに女の声とは思えんと悪態をつかれたが、そんな事よりも今置かれた現状の方がひなにとって問題だったのだ。

「あ、あの!!サカズキ大将!!私は大丈夫ですから!!」

「この足でどうやって歩くっちゅーんじゃあ」

何の合図もなく横抱きにされ、密着する体は緊張のあまりどろりと溶けてしまいそう。

「ひなを置いて出港出来る訳ないじゃろうが」

「で、でも…迷惑かと…」

「置いて行く方が迷惑じゃ」


普段の目線よりも遥かに高い場所に位置する視野が、全く別の世界に思えてならない。


「な、なぜでしょうか」

「報告書は誰が書くんじゃ」



足はズキンズキンと痛むけど、



「ほら、落ちるぞ。わしの首に掴まっちょれ」



貴方の優しさに、とろりと心が溶解する。



「ありがとう…ございます」



ひなは赤くなった顔を隠す様に逞しい胸に顔を埋め、大人しく首に腕を回すとドクンドクンと脈打つ心臓がうるさかった。

しかしそれはサカズキとて、同じだったのだ。



「お前に何かあれば、わしは正気ではいられん」




end

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