本棚A
□染まる
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独特の刺激臭がキッチン内に充満する。明日の仕込みも終わり愛用のエプロンを畳むサンジにごめんねと言えば、構わないよと目を細めた。
「ナミもロビンも寝ちゃったのよ、起こしちゃ悪いから」
窮屈そうに擦れるコルクの音と、力を込めて引き抜かれた後にふわりと鼻腔を掠めるワインの香りが、この不快な刺激臭をいくらか中和してくれた気がした。
「あら良い香りね、そのワイン。スパークリング?」
「そう。こないだ寄った島でこっそり買っててね、俺のとっておき」
磨きあげられたグラスに注がれたワインはプクプクと気泡が底を蹴りあげて、スパークリングと共に軽やかな音を鳴らせた。私は手を止め持っていたハケを小瓶に収めると、差し出されたワイングラスを受け取る。芳醇な香りを楽しむために顔を近づけると、弾ける気泡が鼻先を撫でてくすぐったかった。
「左手は塗れたかい?右手を塗る前に少し休憩をどうぞ、レディ」
「ふふ、乾杯」
チンッと軽やかな音が鳴ったグラスに口付ける。口内で弾けるくすぐったさと鼻腔を抜ける香りが上手く調和していて、さすがサンジが選んだとっておきだわといつもの事ながら感心する。向かい合わせに座ったサンジもグラスを傾け、思った通りだと小さく笑った。
「試飲してないの?」
「試飲なんてしなくても分かるのさ」
「何を見て選ぶの?ラベル?あ、製造年月日とか?」
「んー、強いて言うなら勘?コックの勘」
サンジがトレイに並べたソルトクラッカーを食べながら得意気にほくそ笑むもんだから、私はわざとらしく微笑んで、御見逸れしましたと言ってやる。それにしてもこのスパークリングワインは今までに飲んだ物の中で間違いなく一番の味。なんて事も彼には絶対言わないんだけど。
「綺麗な色だな。なんつーの、そのマニキュアの色」
「アクアブルーよ。凶悪海賊船の女クルーにはピッタリでしょう」
私は綺麗に色付いたネイルを見せるよう、左手甲を表に顔の前で指先を伸ばした。名前の通りまるで海の様な鮮やかな色みに小さなラメが散りばめられたマニキュアは、サンジがワインを買った島で一目惚れした物。果てしない大海原に太陽光が乱反射する様に似ていて、試し塗りすらせずレジカウンターへと足を進めたのだ。
「素敵。思った通りの色みだわ」
「試し塗りしてないのかい?」
「ふふ。試し塗りなんてしなくても分かるの」
「どうして?」
「女の勘よ、勘。女は美しい物には貪欲なの」
得意そうに私が言うとサンジはわざとらしく微笑んで、御見逸れしましたと白い歯を見せた。私はそんな彼と笑い合い、彼のとっておきをもう一口。
「所でひなちゃん。左手は綺麗に塗れても右手はどうすんの?ひなちゃん、右利きだろ?」
「そうなの。左は綺麗に塗れても右手が上手く塗れなくて」
「俺が塗ってあげるよ。ひなちゃんみてぇに綺麗に塗れるか自信はねぇけど」
サンジはそう言うと私の右手からワイングラスを奪い、アクアブルーに染まりぎこちなく動く左手の前にそっと置いた。そして遠慮がちにマニキュアの小瓶を手に取って丁寧にハケをしごく。男性特有の骨張った指がその形容に似合わずえらく繊細に動くもんだから、そのアンバランスさに可笑しくなる。
「ならお願いするわ」
「喜んで」
向かい合わせに座った彼の方に右手を差し出すと大きな手がそっと添えられ、くすぐったい感覚が体の先端から脳へとダイレクトに伝わった。ハケの動きと共に染まるネイルに少しばかりの焦燥感を感じたが、それはマニキュアの見映えじゃなくて、視界を遮る前髪を両耳に掛けて露になった、久し振りに見るサンジの素顔のせいなのだ。真剣にネイルを見つめ丁寧に動くサンジの指先は、私の心を高揚させる。サンジの動きと共に染まるネイルを自分自身に見立てて。
「なんだかひなちゃんを俺色に染めてるみてぇで気分が良いわ」
「あら、同じ事を考えていたのね。私もサンジ色に染められてるみたいで、何だかくすぐったい感じがするわ」
お互いに感じる想いを受け入れているのにも関わらず、何かしらの形を持たないこのあやふやな関係は日々深くなる。相手を何かで縛り付けたくもないし、縛られたくもない。けれどもそこには想いで結ばれた二人がいて。何もかもがあやふやで、何もかもが心地良い。この気が狂いそうな程、果てしない海に浮かんでいるせいで心が誤作動を起こしているのかもしれないし、ひょっとしたらこれが運命とやらなのかもしれない。
「サンジ、やっぱり器用ね。私よか上手だわ」
だけど、そんな事はどうでも良くて。
親指、人差し指、中指の順番で色鮮やかなアクアブルーに染まってゆく。途中、皮膚に付着した色をサンジの親指が拭った。
「本当にひなちゃんを俺一色に染めてみてぇと言えばどうする?」
あぁ。この人は私が口に出来ずに躊躇していた言葉をこうも簡単に口にするのね。心はすでにサンジ色に染まっているのにも関わらず、可愛い気のない性格が邪魔をする。確かな関係をあやふやにしたのはきっと私。
「嫌よ」
「あら?俺、フラれちゃったかい?」
だけど。静かに染められてやる程、私は可愛い女じゃないの。
気づけば私の右手は、アクアブルー一色に染まってた。
「私がサンジを染めてあげる。私が貴方の全てを支配して、貴方の全てを私が染めるの」
私が挑発的に笑うと、ハケを小瓶に収め、ワイングラスを手にするサンジが色っぽく笑った。
「なら、大人しく染められましょうかね」
end