本棚A

□悪戯に、ゼロの距離(前編)
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「じゃあナミさん、そう言う事だから。あぁ、こっちは心配いらねぇーよ」

ガチャリと眠る小電伝虫をテーブルに置いて振り返ったサンジは、シャワー室から出て来た私に白い歯を見せて笑った。

「ナミ、何て?」

「あぁ、今夜一晩は振り続けるけど、明日の朝には止むだろうって」

その言葉に私は胸を撫で下ろし良かったと言うと、サンジはやっぱり笑ってた。

「皆、お腹空いてるんじゃない?大丈夫かな」

「それは大丈夫。ちゃんと用意してるし、あとは盛り付けるだけだから。心配いらないよ」

とある島の繁華街。お目当てのショップに辿り着く手前で、視界を遮る程の激しい大雨に足止めをくらった。傘を買おうかとも考えたが、雨の少ないこの島には言い訳程度の傘しか売っておらず、三キロ以上離れたサニー号への帰還を諦め、私達はこの小さな宿に逃げ込んだのだ。

「ごめんね、サンジ。私が買い物に付き合ってなんて言ったから」

「気にしないで、ひなちゃん。俺も気晴らしに散歩したかった所さ」

申し訳なく思い謝る私に笑いながらそう言ってくれたサンジは、愛煙を燻らせながらルームサービスのサンドイッチを頬張った。

「クリーニングも朝には仕上がるみたいだし、取り敢えずひと安心だね」

春島だけあって年中気温は高いが全身を雨に打たれれば、体温は容赦なく奪われていく。冷え切った体をシャワーで温め、ようやく一息ついた私とサンジは窓際に置かれたソファーに腰を降ろし、少し贅沢だとは思ったがサンドイッチと一緒に頼んだワインを飲んでいた。隣を見れば備え付けられたルームウエアを着たサンジが、美味しそうにグラスを傾けている。

ルームウエアと言ってもしっかり縫製されているものではなく、袖を通して帯で軽く縛るタイプの、謂わばバスローブの様な作りの物。サンジが動く度に胸元が緩み、鍛え上げられた胸板がちらりと覗く。簡単な作り故仕方ないと言えど、私の心拍を早めるには充分すぎる光景だった。

生憎の混雑で一部屋しかとれなかった事だとか、シャワーから上がり濡れた金髪を初めて見てしまった事だとか、幾瀬もの偶然が私の心臓を荒ぶらせる。

「はい、ひなちゃん」

「あ、ありがと」

注がれるワインは数ある酒類の中で、一流コックが選んだとっておき。ワイングラスを持つ私の手をサンジの大きな手が包み込み、グラスの底で踊る様に注がれる。辺りを見渡せばこじんまりとしたシンプルな室内。安宿故に内装への期待は全く無かったのだが、値段の割りには内装、広さ共に申し分無い。しかし、入室時から私はある事が気になって仕方がないのだ。

「サンジ…あの…ベット…」

「ん?あぁ、ひなちゃんが使うと良いよ。俺はソファーで寝るから」

一部屋しかとれないのならせめてツインをと思ったが、何せ突然の大雨。町行く旅人が考える事は、皆同じだった。ダブルでしたらご用意出来ますと言ったフロントレディの言葉と、構いませんと迷わず答えたサンジの言葉に柄にもなく幾ばくかの緊張を覚えたのは、つい数時間前の事。子供でもあるまいし。私は呪文の様に脳内でそう繰り返し、何とか取り乱さずに震える手でワイングラスを傾けているのである。

「でも…体しんどくない?何なら私がソファーで寝るよ」

「とんでもない!レディにそんな事させられねぇ」

サンジはそう言ってグラスのワインを飲み干すと、次の一杯へと手を掛ける。普段からよくお酒を嗜む彼だが、今夜はえらくペースが早い。それにえらく上機嫌で少し酔っているのか、頬がほんのり桜色をしていた。

「サンジ、えらくご機嫌さんね」

「そうかい?こんな時間にワイン飲んでゆっくり出来るなんてそう無いからなあ。ちょっと楽しいのかも」

「そうよね。サンジはいつも忙しいし、こんな事でもなければ、そうゆっくりも出来ないものね」

壁に掛けられた簡素な時計を見ると寝るにはまだ早い数字をさしているが、ここ数日の疲れがどっと瞼に押し寄せて来る。ナミの航海技術を持ってしても人間が自然の脅威に太刀打ち出来る訳はなく、大きな荒波に船ごと飲まれ。ようやく次の島に辿り着いたかと思えば海軍に追われ。私を含めクルー全員がこの所の不運に疲労困憊だった。きっとサニー号でも片付けを済ませ、不寝番のチョッパー以外はうつらうつらとしている頃だろう。ゾロとサンジも流石に疲れたと洩らしていたが、些細な事で喧嘩する二人にナミの怒号が飛び交っていた。

疲れたとか言いながらルフィは無茶苦茶するし、ロビンは相変わらずマイペースだし、フランキーはアウアウ煩いし、他の皆も何だかんだと楽しんでいる様だった。かく言う私もそんな騒々しさは嫌いじゃない。

「さて、もう寝ようか。ひなちゃんも疲れてるだろ?」

「そうね。何だか一気に疲れが押し寄せた感じがする。久し振りにゆっくり休めるね」

「あぁ、そうだな。流石に俺も疲れたよ。今日はゆっくり寝よう」

サンジはそう言ってクローゼットの中から予備の毛布と枕を取り出すと、私が座っている横に置いた。私も手にしていたグラスを空にしてテーブルに置き、ベットの中に足を滑り込ませるとパリッと糊付けされたシーツが爪先で割れる。枕に顔を埋めた時、微かに甘い香りがしてカバーの中に手を差し込むと、小さなピンクの香り袋。何気無い心遣いが嬉しくて、私はそれをカバーの中にそっと戻した。

「サンジは真っ暗にする派?」

「真っ暗でいつも寝るけど、明るくても大丈夫」

ソファーの横に置かれたフロアスタンドを消すと、サンジは薄暗く室内を照らすダウンライトの明かりを頼りにソファーへと横になる。安眠の位置を探るサンジへ遠慮がちに問えば、返ってきた言葉に安堵した。

「ダウンライトだけ点けててもいい?」

「あぁ良いよ。何ならフロアスタンドも点けようか?」

「ううん、大丈夫。真っ暗でなければ平気なの」

そっか、と優しい声で言うサンジはきっと笑ってる。ベットと平行に置かれたソファーの方を見ると、もそもそと動くサンジの影。徐々に慣れて開けてきた視界は、安眠の位置が定まらないのか、左右に何度も体の向きを変えるサンジを捉えた。暫くの間座っているだけでお尻が痛くなる程に固いソファーは、一晩を明かすにはきつ過ぎる。

「ねぇ…サンジ」

「ん?何だい、ひなちゃん」

サンジは仲間なんだ、何をどきまぎする必要があるだろう。

「ソファー、固いでしょ?」

「少しかてぇけど大丈夫」

何度も向きを変えられる体が、それが嘘だと言っている様で。

「一緒に…寝ない?」

「え?!…いや…でも…」

「大丈夫。ダブルだし、広いよ」

私はサイドテーブルに置いたもう一つの枕を手に、位置を横にずれる。スペースの空いたベットに枕を置いてどうぞと言えば、暗がりの中ソファーから上体を起こした。ダウンライトの灯りは頼りなさ過ぎて彼の表情は伺え無いが、少し焦っている様な、少し驚いている様な。

「本当に良いのかい?」

「もちろん!サンジは嫌かな?」

「とんでもない!」

サンジはソファーから立ち上がり、遠慮がちに足を滑り込ませて来る。サンジの温かい爪先が私の脹ら脛に触れると全身がゾクリと震え、タオルケットを固く握り締めた。その距離僅か数十センチ。触れる感覚こそないものの、互いの温もりを微かに感じるそんな距離。

「サンジ、体温高いね」

「そうかい?ひなちゃんは体温低いな。寒くない?」

サンジはそう言うと、体の向きをこちらに向けて大丈夫?と言った。しかし私が低体温なのは昔からな訳で。サンジが横たわるベットの右側が妙に温かく、私の緊張の糸を解く。ポカポカとサニー号を照らす太陽の様に、何とも居心地が良い温かさ。

意識の奥でルフィとウソップ、チョッパーのバカ笑いが聞こえて、ブルックが奏でるバイオリンの優しい調べが私の瞼を重くする。ナミやロビン、サンジやフランキーやゾロ。九人の気配が確かにそこにあって、微睡みの中で私は幸せを噛み締める。決して良い日ばかりじゃないけれど、決して悪い日ばかりじゃない。瞳を閉じればそんな日常の風景が瞼の裏に鮮明に浮かぶのだ。

「何笑ってるんだい?」

「あら。笑ってるの、見えた?」

「目が慣れて来たから」

相変わらず窓の外では大粒の雨が大地を激しく打ち付け、遠くの空で雷鳴が轟いている。窓の外がピカッと光ったかと思えば、頭上に落ちたのかと錯覚してしまう程の雷鳴が轟き、私は驚いてグッとタオルケットを握った。

「っと。今のは近かったな」

「うん、びっくりしたー」

「ひなちゃん、怖くない?」

「雷が怖いなんて言ってたら、海賊なんてやってられないわ」

私がそう言えば、サンジはそりゃそうだと楽しそうに喉を鳴らせる。そんな時だった。部屋中にバチッと耳障りな音が響いたかと思えば三つのダウンライトが一気に消えて、暗闇が私の神経を支配する。少し狭まった瞳孔は咄嗟の変化に対応出来ず視界が完全に塞がれたと同時に、私の心臓は一気に荒ぶった。

「ひなちゃん?大丈夫かい?」

ガクガクと体が震えると同時に軽いパニックを引き起こし、サンジの言葉にまともな返事が出来ない。

「サン…ジ…あ…大丈夫、じゃ…ない」

何とか言葉を振り絞ると、私はタオルケットに顔を埋めた。祈る様に目を閉じても、先程まで身近に感じた日常は消え失せ、恐怖心すら意識の奥に散ってはくれない。

「大丈夫、俺がいるから」

私の後頭部に大きな手が触れたかと思えば、一気に引き付けられて気付けばサンジの腕の中。その距離ゼロセンチ。サンジの両腕が私をしっかりと抱き寄せ、高い体温を全身で感じる。私はすがる様に抱きついて、優しく背中を打つサンジの手の温かみを感じながら、荒ぶる心臓を落ち着かせる。

「あ、ついた。ありがと、サンジ。真っ暗なのはどうも駄目で。カッコ悪いね、私。…って、サンジ?」

「なんだい?」

「もう大丈夫だよ」

「うん、良かった」

「あ、あの…」

パチッと灯るダウンライトは漆黒の静寂を打ち砕き、それと同時にゼロセンチの近さを意識させた。サンジの胸の中に顔を埋めている事で、彼の視線に囚われずに済んでいるのが唯一の救いだろうか。

「ひなちゃんはさ、強がりな所も可愛いけど、もっと自分に素直になった方が良い」

「素直?」

「そう、素直。怖いならもっと俺を頼って欲しいって事」

サンジはそう言うと両腕に力を込めた。サンジの右手が私の後頭部にそっと添えられ、長い指が優しく髪をすく。

「もし俺が真っ暗にしないと眠れないっつったら、どうするつもりだったんだい?」

「んー…どうにかして真っ暗で寝るわ」

「それだよ。ひなちゃんはもう少し我が儘になった方が良い」

サンジの長い指が私の髪を優しく捩り、くすぐったい様な、気持ちいい様な。

ひょんな事から麦わら一味に入る事になって半年。新世界のある島で刀鍛冶をしながら暮らしていた時、麦わら一味がやって来た。船長であるルフィに半ば無理矢理連れて来られた様なものだけど、後悔は一切していない。ゾロと刀の話をするのも楽しいし、ナミやロビンと買い物に行くのがこの旅の楽しみの一つだったりする。ゾロ程ではないけれど剣術に関しては多少腕に覚えがあるものだから、戦闘に関しても少しは役に立てていると思う。この一味こそが私の安息であり、私の居場所なのである。

「なんで俺には頼ってくれねぇの?」

「頼ってるよ。サンジの料理はどれも美味しいし、本当に感謝してるわ」

「そうじゃなくてさ、男としてもっと頼って欲しいって事さ」

初めてサニー号に乗った時、キッチンで愛煙を燻らすサンジの姿に一瞬ドキリとした。それが恋なのだと漸く認識したのは一月前。いつも女性として扱ってくれるサンジに物心ついた時から男所帯で生活して来た私に、産まれ持った性別が女なのだと気付かされる。何度もこの想いを伝えようと考えたが、やっと手に入れた安息を失う事が何より怖い。

「そ、そんな事ないよ」

「そんな事あるさ。何だか俺を避けてるみてぇ」

想いに胸を締め付けられる度にサンジから一歩引いて、辿々しくなってしまう自分が恨めしい。

「実はさ、ひなちゃんが暗闇が苦手なの、俺知ってたんだよね」

「え?何で?」

「マリモから聞いた。それに蝶のモチーフが好きなんだろ?」

「あ…うん」

「ナミさんとロビンちゃんから聞いた」

自分の想いを伝える事で何かを崩してしまうのならと、私はいつしか保身的になっていた。なのに悪戯に近付いたゼロセンチの距離が、私の心をざわめかせる。

「俺はひなちゃんの事、何も知らねえ。いつも周りから教えられる」

サンジは仲間なんだと自分に暗示を掛ければ掛ける程、不器用になる。サンジは回した腕に力を込めて、苦しそうに呟いた。

「こんなに好きなのに、ひなちゃんは全然分かってくれねえ。今日の朝、買い物に誘ってくれた時、俺ガラにもなくキッチンでガッツポーズしたんだせ」

「サンジって私の事…す、す、好き…と、とか?」

この感情に終わりを告げようと、けじめの為に誘った買い物。その出先で雨に打たれ、こうして一つの部屋で同じベットに横たわる。全てが偶然で、全てが悪戯だ。

「あぁ、好きだ。好きすぎて仲間にまで嫉妬しちまう」

サンジはそう言うと、私の髪にキスをした。私とサンジの距離、ゼロセンチ。この悪戯めいた距離が私の心臓を容赦なく荒ぶらせるのだ。

「な、な、仲間じゃないっ」

「確かに仲間だけど、その前に男と女だろ?」

あぁ、駄目だ。閉じ込めた想いが溢れ出して、私の脳が完全にオーバーヒートした。


「ねぇ、ひな。俺の事、好きって言ってよ」



私の頭は重症だ。


何でも直すフランキーでさえ、きっと私の頭は治せない。






「ねぇ。早く」






end

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